火曜日のルリコ(12)

「どうしたの、アリー。遅かったじゃない」

 女性客は、わざとらしく頬をふくらませたが、目の辺りは笑っていた。

「すいません。なにしろ、初来店でスードン入れてくれるお客さんがいたんですよ。店長としては、一言挨拶しないわけにはいきません」

「ま、うまいこと言って。若い娘のご機嫌とってたんじゃないの。私もまた、ドンペリ頼もうかしら」

「そんな必要はありませんよ。なにしろあなたは特別ですからね。今日はあなたに、俺からのプレゼントも用意してますよ」

「あら、うれしい、なにかしら」

「とっても、素敵なものですよ」

 

 一階で女性客を送り出した松村は、夜風の中に、救急車のサイレン音を聞いた。

 意外に早かったな。

 心の裡で呟いた。

 

「優子さんが、優子さんが・・・」

 久保田はすっかり落ち着きをなくしてしまい、救急病棟の薄暗い、狭い待合室で、椅子の隙間を果てしなくさまよい歩いていた。

 背広は汚れだらけで、ところどころにクモの巣までこびりついていた。ルリコの方も、似たような悲惨な状態だった。

「優子さんが、優子さんが・・・」

 歩き回りながら、久保田は呪文のように繰り返していた。

 そんな久保田を前に、ルリコもかける言葉が見つからなかった。

 時計の日付はとっくに新しくなっており、二人の他に、待合室に人影はなかった。

 

 優子は、「カルバラ」でルリコに電話した後、スマホをバッグに戻した。そのとき、通話終了していなかった。

 そのためルリコと久保田は、「カルバラ」近くの路地で、松村と優子の会話をすべて聞くことができた。アプリを使って録音もした。

 二人は、優子が松村に指示されたとおり、会話を途中で切り上げて会計をすませようとしている知って走りだした。

 すぐにあのビルの屋上に登らないと。何とか優子を引き止めないと。すべてが終わってしまう前に・・・。

 二人がいた路地からカルバラの入居するビルまでは、一分とかからなかった。

 しかし雑居ビルのエレベーター前には、大勢の人間が群がっており、割り込めそうになかった。この種のビルでは、利用客の数に比べて、エレベーターの数が極端に少ないのが常だ。

 二人は、「非常階段」という表示のあるスチールのドアを押し開いてみた。

 そこにある短い廊下を抜けると、またも「非常階段」と表示されたドアがあり、その外に出ると、隣のビルとの隙間に出た。

 ドアのすぐ脇には、鉄製の手すりのついた階段が、ずっと上までジグザグに伸びていた。

 迷っている暇はなかった。

 二人は、大きな足音を響かせながら、階段を駆け上った。

 優子は、カルバラのある五階の非常口から、この階段に出るはずだ。それが松村の指令だからだ。

 あの厚底サンダルでは、階段を走り抜けることはできないだろう。屋上に上るには少し程度時間がかかるはずだ。ルリコと久保田が全速力で追いかければ、何とか途中で優子をつかまえることができるかもしれない・・・。

 しかしすぐに、そんな期待が甘かったことを思い知らされた。

 各階の踊り場や、時には非常階段の段の上には、傘立てや、空のビール瓶を二ダースばかり詰めこんだカートン、ゴルフセットやバットにグローブ、古くなったガスレンジや調理道具、清掃用具など、ありとあらゆるがらくたが並んで、二人の進路を妨害していた。おまけにそうした放置物品を利用して、クモたちが夥しい数の巣を張り巡らしていた。

 そうした障害物を押しのけ、よじ登り、脇によけ、払いのけ、かきわけ、隙間を抜けて、やっと六階の出入口までたどり着いた。

 そこには、見覚えのある厚底サンダルの片方が横たわっていた。

「優子のだわ・・・」

 いけない。急がないと。だが、ずっと駆けどおしで息が続かない。

 サンダルの前にかがみこんで、一息入れる。

「これ、ユーコ、さんの・・・」

 すぐ後に続く久保田も、ゼーゼー言いながら、サンダルの前にしゃがんで手を伸ばそうとした。

「だめ、ハア、拾ってる暇、ないわ、ハア、先を・・・」

 ルリコは、大きな深呼吸をして、自分に活を入れた。

 二人は再び上を目指す。

 七階の踊り場には、金属製のロッカーが居座っていた。

 手すりとロッカーの間にわずかな隙間があり、身体を横にすれば何とかすり抜けられそうだった。そのスペースに、サンダルの片割れが残っていた。

 泣きわめきそうになった自分を必死に押さえ、ルリコは片手を伸ばし、サンダルを拾い上げて踊り場の隅に置いた。

「何だよ、俺には拾うなって・・・・」

「うるさい」

 思わず怒鳴りつけてしまった。声が半泣きになっていた。

 手すりの上に上体を乗り出すようにして、わずかな隙間を抜けた。

 この数秒で息を整えることはできたが、横向きに一歩ずつしか歩けない状況がもどかしかった。すり抜ける間も、涙が止まらなかった。

 このわずかな遅れが、命取りになったかもしれない。

 そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちだった。

 とにかく急がないと。優子が、優子が・・・・。

 八階に来ると、膝ががくがくしはじめた。

 ルリコは、両手で手すりをつかんでたぐり寄せ、痺れそうな両足を手助けした。

 九階に上る途中で振り返ると、久保田はまだ八階の踊り場にいた。

 ルリコは割れる息で叫んだが、声がかれていた。

「何、してんの、いそいで、優子、が・・・」

「ちょっと、休ませて・・・」

「この、役立たず・・・」

 悪態をついて、ルリコは先に九階に登った。

 あと一階。

 手すりを握って身体を引き上げた。心臓が飛び出しそうだ。そのまま、倒れこむようにして屋上に飛び出した。

 最初に目に入ったのは、コンクリートの屋根のほぼ中央に投げ出された、口の開いた白いバッグだった。優子のだ。

 右側の手すりの上には、何か、白っぽいものが乗っていた。

 優子だ。

 大人の腰くらいしかない低い鉄柵に、優子が片足をかけて、のろのろと乗り越えようとしている。その先は奈落だ。

「待って、待つのよ、優子。そこで止まって」

 必死で声を絞り出した。すると、優子が動きを止めた。

 靴下はだしの左足がかろうじてコンクリートの屋上にとどく状態で、右膝の裏はフェンスに乗ったままだ。

 小学校の頃理科の教材でみた、尾の長い鳥の形のやじろべえのように不安定な姿勢だ。

 ルリコは、よろめきながら優子に近づき、息を整えながら言った。

「優子、よく聞いて、そのまま、こっちを向いて、ゆっくりよ」

 ルリコに命じられるまま、優子は顔をルリコの方にひねった。微妙なバランスが崩れ、優子はゆっくりとフェンスの内側に倒れた。ごつん、という重い音がした。

「優子さん」

 ルリコの後ろで叫んだのは、久保田だ。二人は優子に走り寄った。

 照明がほとんどないのではっきりとは見えないが、優子の白いブラウスのボタンがいくつも取れていて、ところどころに黒い汚れがこびりついている。

 非常階段の障害物を乗り越えたときに、付いたのだろう。

 いつもはきちんと閉じている手首のボタンも、外れていた。

 哀れな姿の優子は、前後に少しばかり両足を開いた形で、両手を前に投げ出し、右側を下に横向きになって、冷たいコンクリートの上に倒れていた。

 久保田がその肩に手をかけ、上体を引き起こしたが、優子の頭は力なく下に垂れた。

「優子さん、優子さん、しっかりして・・・」

 ルリコも、優子の頭を両手で持ち上げながら、声をかけた。

「優子、私よ。わかる」

「大変だ、人工呼吸しないと」

 久保田がそう言って、ひときわ大きく息を吸い込んだ。

「こんなときに、ふざけないで」

 ルリコが久保田を制して、優子の頭全体を手で探った。

「どうやら、出血はないようだわ」

「でも、すぐ救急車を呼ばなくちゃ」

「とにかく、下におろしましょ」

「よし、それじゃ、二人で両側から支えよう」

「ちょっと待って」

 ルリコは、まず優子のバッグを拾い上げ、自分の左肩にかけた。それからルリコが左、久保田が右から優子の脇の下に肩を差し入れ、その身体を持ち上げた。

 誰かに見咎められるおそれもあったが、二人はエレベーターを使うことにした。

 ぐったりした優子を両側から支えながら、障害物だらけの狭い階段を降りるなんて、とても考えられなかった。

 二人は優子の両手をそれぞれの肩に回し、片方の手で腰のあたりを少し持ち上げた。少しでも優子の身体が動かないよう、一段ずつ注意しながら非常階段を降り、九階の非常口からそっと中に運び込んだ。

 九階は、どこかの会社の事務所らしかったが、もう就業時間を終えているらしく、ルリコたち三人以外、エレベーターに乗り込む者はなかった。

 このまま優子を床に座らせ、エレベーターの壁面によりかからせれば楽だったろうが、誰かがそんな光景を見たらきたらきっとびっくりするだろう。

 そう考えると、ぐったりした優子を、両側から二人で支え続けるしかなかった。

 幸い、下っていく客はそれほどおらず、優子や、その両側から肩を貸しているルリコと久保田を見咎めるようなおせっかいもいなかった。

 

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