未発表掌編 『ダンスフロアの幽霊』(2022.2)
一般的に、幽霊が出るにはふさわしい場所というものがあって、ダンスフロアはその対極だと思うのだけど、彼は、そこにいる。いわゆる地縛霊ってやつらしく、クラブからは出られないけどラウンジへの移動とかはできるようで、僕はそこで彼とよく話してる。なぜって僕はそこのバーテンで、バーには隙間時間みたいなものも生じるから。それに、彼のことを正しく認識してるのは僕だけだし、彼──ダンスフロアの幽霊はもう三年もここにいるっていうんだから、相手をしないとさすがに可哀想じゃないか。
二ヶ月前、僕がこのバーで働き始めたその晩、ハイ、と彼は話しかけてきた。カウンターに頬杖をついた遊び人風のお兄さん。何にします? 僕が訊いたところ、彼はにこやかに「お酒はダメなんだ、幽霊だから」と言った。冗談と思って愛想笑いで返すと、澄まし顔でこう続けた。
「いや、飲もうと思えば飲めるんだけど、この体の主はもう相当に酔ってるから憑依することでおれが止めてるんだよね。おれは、ほっとくと危ないかもなーってお客さんの体を休めてあげてるの。だから、水をもらえる?」
はは、優しい幽霊なんですね。僕は水を渡して適当に流したのだが、毎晩のように彼は姿だけ変えてくるから信じるほかにはなくなった。彼は若い女性のときもあるし、五十代ほどの男性のときもある。今夜はというと、二の腕に刺青が入ったムチムチの青年だ。ともあれ、カウンターに肘をつき彼は言った。
「いやー、こいつはヤベエ。MDMAの食いすぎプラスでLSDまで入ってる。いわゆるキャンディフリップってやつ? オーバードーズ寸前だし、下手したら俺と同じ死に方しちまうわ」
エビアンのボトルを縦にして流し込む。ぷはー、と息を吐いてニカッと笑う。彼の口調は主のそれに寄るらしく、表情やしぐさも同様だから、この愛嬌はきっと主である青年のものなのだろう。
「過剰摂取。って、そんな状態でよく普通に喋れるね?」
「まあ、俺の体じゃねえし。残念ながら俺自身の感覚はだいぶ鈍麻してっから」
「なるほど」僕はグラスを磨きつつ言った。「ていうか、君ってやっぱそういう死に方だったんだ?」じつは死因とかプライベートなことにはあまり踏み込んでなかったのだ。
「おいおい、今さら触れんの?」彼は自分の坊主頭を撫でた。「でもま、クラブで死んでんだからあたりはつくかあ。そ、割と大御所なDJの来日イベントで、俺はそのレポートに来てたの。んで、粗悪なブツを食っちゃって──ま、悪い死に方じゃなかったよ。わけもわからんうちにうっとり御陀仏だから。最悪なのはこんなとこで地縛霊になったことだよなあ。だって夜な夜なみんなが昇天してんのを尻目に俺だけ昇天できねんだもん」
こういうユーモアはたぶん彼自身のもので、主が誰であっても軽口を叩くからそうに違いない。彼は陽気な幽霊なのだ。ともあれ僕は訊いた。
「レポート? って、どういうこと?」
「ああ、俺は音楽ライターだったんだよ。で、なんと今では──」
「ゴーストライターに」
「それです」
「君ってそういうことばっか言うよな」
一事が万事この調子なので、彼との会話はどうにも緩くなる。その実在は信じてるけど、はんぶん夢みたいでふわふわしてしまう。
「とにかく。俺は音楽を愛してたけど、毎晩コレだとキチーのよ。クラブっつーのはハレとケの中間、日常と非日常のブリッジで、完全な日常にするもんなんかじゃねえわけ。趣味が合わないイベントだって多いしさ。ステイン・アライブとかかけられた日にゃ、いやもうとっくに死んどるわ!! ってなるし」
「うーん、それはわからなくもない」ステイン・アライブはさておき、職場がクラブだと音楽的な感受性をオフにせざるを得ないとこがどうしてもある。今夜のイベントもまたひときわアッパーかつカラフルな選曲だ。
「だから、できれば昼に化けて出てえのに、明け方になるとスウッと意識が遠のいてさ。気づけば無情にも深夜の喧しいフロアに戻ってるっていう」
「で、夜毎に熱心な人助けを」
「そう。ゆーて喋りたいから憑いてるとこもあっけどさ。いつでも危機的な奴がいるってわけじゃねえし。迷惑ナンパ野郎を強制退場させるとかならまだしも、暴れたがってる奴の体で踊ったり、眠たい奴の体でお喋りしたり……まあまあ好きにしちゃってます」面目なさげに巨体を縮こめる。「けど、俺の憑依って割と気持ちいいみたいだし、ヒーリング作用もあるから許してほしい……」
僕は笑った。「それ、イメージとは逆で面白いよね」普通なら生気を奪いそうなものだが、どうも彼の憑依には解毒効果があるのだ。white as a ghost って慣用句があるけど、彼に憑かれた人はむしろ血色がよくなってしまう。彼の離脱で記憶は飛ぶが、誰もが一様にスッキリとした表情になっている。
その能力(?)は精神面にも及ぶらしく、彼は希死念慮のある女の子を救ったこともある。「なんか危うい雰囲気があったから憑いてみたら、明日にでも死ぬ気なんだよこの子! ネグローニでも飲ませてくつろいでもらって帰そ!」と、そのとき彼はかなり慌てていて、ラウンジのソファで朝まで彼女を休めていた。心身を癒しつつ彼は内的な対話をしてたというのだが、それで危ないところは乗り切れたらしい。次に彼女がクラブを訪れたとき、「よかった、もう大丈夫そうだね」彼はスーツを着た男性の姿で胸を撫で下していた。
「に、しても」そこで僕ははたと疑問を口にした。「そんなに憑依を重ねてて、君の自我って同一性を保てるの? だって記憶とか内面にも触れてるんだよね。感覚が鈍麻してるとはいえ、他人の体でものを感じたりもしてる」
すると彼は丸太のような腕を組んでうーんと唸った。
「同一性は問題ない……と思う。けど、知識や経験の一部が微妙に残るから、俺っつう個人の変化は速いな。たとえば男とか女とかあんま意識しなくなったし、なんなら二元論的な分類ってほとんどファンタジーだと感じるようになったりね。ふふ、バイナリファンタジー」
「ファイナルファンタジーか! って言ってほしいんだろ」
「そうです」ふふ、ともう一度にやける。「けど、これって大マジで。十人とかに憑けばもう充分実感できる。んでもって人のアイデンティティって変化の過程を瞬間的に捉えたもんの呼び名でさ。俺はずーっと変化してるけど、結局のところ俺は俺だね。誰がなんと言おうと」
ふうん、と僕は言った。確かにまあ、彼は多様な姿かつ多様な口調で喋るけど、いつでも彼だと感じるし、じっさい彼は彼なんだろう。
「とはいえ、変化もいいけどボチボチ成仏してえよ。もしお前が辞めちゃったらまた寂しくなるし、月に二回はステイン・アライブを聴く羽目になるし」
「そういえば、僕の前のバーテンはダメだったわけ?」
「気が合わなかったんだよ。てんでユーモアのわかんねえ奴でさ。つか、お前みたいなタイプって何気に珍しいんだぞ」
ふうん、と僕は繰り返し、成仏かあ、と考えてみる。はっきり言って僕は死にたくないが、いざ死んでしまったら成仏はしたいものなのかも。こんな場所から出られないならなおのこと。でも、彼がいなくなったら僕だってちょっと寂しくなるよなあ……。そう思ったとき、彼が出し抜けに言った。
「ところでさ。お前、こいつのことって好み?」
「え?」と虚をつかれた。彼は親指を自分の顔に向けている。丸っこい坊主頭の、ややガラの悪いその顔でどこか面映そうに、
「あのな。ちょーっと失恋の痛手でヤケになっちゃったっぽいけど、これで根は真面目な奴だし、こう見えて頭も悪くねえし、優しいし、そんで、どうもこいつはお前のことがだいぶ好みみたいだぞ。体がそう言っている」
「え」
「もともとの俺は90%ぐらいヘテロだと思うし、この体の感覚は鈍麻してるけど、さっきから妙にドキドキしてんだよ。ドラッグなんかのせいじゃなく」
え、としか言わない僕の顔にすべてが現れてたのだろう、彼はやれやれと言わんばかりの顔つきになった。
「いーよなあ。ま、恋愛を求めない感覚ってのも俺はもう知ってるけど、やっぱ生きてる奴の特権って感じはするもんなあ。くっそー、俺も恋愛してえ。男でも女でも誰でもさ。んじゃま、グッドラック」
直後、ハッと正気づいたように彼は目をぱちくりさせた。解毒が済んだのだろう、例によってスッキリした健康的な顔になっているが、露骨に動揺している。きょろきょろし、僕をじっと見たかと思うとすぐに目を泳がせる。
「──えっ。まさか俺ナンパした? 違うんすよ! そんなつもりで来てないし、ゲイナイトだからって箱のバーテンさんまでゲイとか思わんし、タイプだからって声かけたりしないし、なんつーか、えっ、あれ?」
と、かくなるわけで僕には恋人ができたのだが、その夜を境に彼は消えてしまった。まさか仲人じみた真似をして成仏? なんで? 確かに ghost には《唐突に連絡を断つ》みたいな意味もあるけど──なんでこのタイミング?
想像した以上に寂しくて、何の覚悟もしてなくて、僕は途方に暮れた。陽気で優しい幽霊。考えてみれば名前さえ知らない。なんだよ。挨拶ぐらいさせろよ。急すぎるよ。けど、成仏したいって言ってたもんな……と僕は自分を納得させたのだが、わずかに一週間後に彼は戻ってきた。いわく、
「いや、なんか柄にもないコトしたら照れ臭くなっちゃって……」
とのことで、なんだよなんだよ! 僕は大いに脱力した。
ともあれ彼は相変わらずで、今日は泥酔ギャルの体で水をがぶ飲みしつつ、「とにかくおめでとー。あのねー、こう見えてもこいつってねー」と僕の恋人にウザ絡みし、「うわーっ! プライバシーの侵害はやめろ!!」と恋人はあたふた喚いている。ちなみに今さら名前を尋ねてみると、陽気な幽霊の彼はユウスケというそうです。ユウスケかあー。
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