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【木村泰子先生に聞いた】「新1年生の保護者である」という不安との向き合い方

2013(平成25)年に生まれたうちの息子は、この4月から小学生。地元の公立小学校に通うことになる。

ここまで長かったような、あっという間だったような。

新型コロナウイルスに振り回される中、息子を取り巻く3月の日々は慌ただしくて、じっくり感慨にふける間もなく過ぎていってしまった気がする。

3月に入るとすぐに保育園から「登園自粛のお願い」が届いた。夫婦ともにフリーランスである我が家では、それから2週間、息子とともにほとんどの時間を自宅で過ごした。

下旬には、考えられる範囲での最小規模で修了式(卒園式)を開いていただいた。

マイク越しの先生の声は、マイク越しであるはずなのに聞こえづらい。「なんであんなにボソボソと話すんだろう?」と思ったけれど、理由はすぐに分かった。できる限り飛沫が発生しないようにしているのだと。

中には0歳児の頃から成長を見守ってきた子どももいるだろう。先生たちだって、この晴れの場で伝えたいことはたくさんあったはず。それなのに最低限のコメントしかできないなんて、ただただ切ない。

長くなってしまうけれど、ここから本題。

僕たちが住む東京都多摩市では、4月6日に市立小学校の入学式が行われる。修了式と同じように規模も参加者も最低限。

その後のスケジュールは本日(4月1日)時点ではまだ分からない。色鉛筆に給食袋に……と、学校からの案内を見ながら必要なものを少しずつそろえてスタンバイするしかない。

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うちは初めての子どもで、初めての新入学なので、ただでさえ分からないことだらけだ。

東京は都市封鎖寸前の予断を許さない状況だと言われている。

4月早々に通常通りの学校生活が送れるとは考えていないけれど、「新1年生の出だしはとても大切な時期なんじゃ……?」と、どうしても不安を感じてしまう。

もしかするとそれは、学校で待つ先生方も同様なのかもしれない。

感染拡大を少しでも抑えるために、何よりも子どもたちの安全を確保するためには、当面の間、学校へ通える頻度が低下してしまうことはやむを得ないと思う。

親の仕事に影響が出る、ひいては経済全体へも影響するという問題も考えていかなければいけないけれど、子どもを主語にして考えたとき、大人はまず何を考えどう行動していくべきなのか。

恥ずかしながら、僕は今、息子にどう語りかけるべきなのか分からなかった。

そしてふと感じたのが、同じような気持ちでいる「新1年生の保護者」は多いのではないかということ。

こんなときだからこそ、木村泰子先生の話を聞きたいと思った。

木村先生は、映画化された『みんなの学校』で知られる大阪市立大空小学校の初代校長を務めた方だ。

「すべての子どもの学習権を保障する」という理念のもと、障害の有無に関わらず子どもたちが同じ教室で学び、教職員も地域の人たちも当事者として、一つになって運営する学校を作った。

そして新1年生を毎年迎え入れ、一人ひとりの子どもと向き合ってきた。

僕自身は、千代田区立麹町中学校で教育改革を進めた前校長・工藤勇一さん(4月から横浜創英中学・高等学校の校長)を取材する中で、幾度となく木村先生の言葉にも触れ、感銘を受けてきたのだった。

子どもにとって、小学校という新たな世界へ入っていく今はどんな時期なのか。

この特殊な時期に「新1年生の保護者である」僕たちは、どんなふうに不安と向き合っていくべきなのか。

電話取材に応じていただいた木村先生の言葉を、インタビュー記事の形で紹介したい。

(木村先生の写真は2018年6月の取材時のもの、撮影/稲田礼子さん)

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新1年生のスタートは「多様な世界」との出会い

――新入学を控えていますが、新型コロナウイルスの影響は避けられそうもなく、親として不安を覚えざるを得ません。

木村泰子先生(以下、木村):それは今まさに、多くの方が感じていらっしゃるでしょうね。

子どもも同じだと思います。大人のようにうまく言葉にできなくても、考えていることはたくさんあるはず。そして子どもが感じることは、身近な大人が発する空気に強く影響されるんです。

家の中で親が「入学式はちゃんとあるのかな?」「学校はいつから始まるんだろう?」と心配そうにしているのを、子どもはじっと見て、影響を受けていますよ。

保育園や幼稚園とは違う世界へ行くのだから、子どもの中にも当然、不安の気持ちがあるはず。その不安をいかにして安心に変えるかが私たち大人の仕事です。

――そもそも新入学のタイミングとは、子どもにとってどんな時期なのでしょうか。

木村:私は全国の幼稚園・保育園の研修に参加させてもらっていますが、最近の幼稚園・保育園の運営方針は本当にさまざまだと感じます。「文部科学省の方針通りにやっている」というところがあったり、「そんな方針に従わず森の中で思いきり遊べばいい」というところがあったり。

家庭環境もさまざまです。どんな空気を吸って育ってきたのかは、一人ひとりの子どもによって違うんです。

そんな子どもたちが、入学式の後に「最初の多様性」と出会います。

教室に集まり、みんなが一律に座らされている中で、おしゃべりせずにじっと黙っている子もいれば、大人に忖度せず部屋を飛び出していく子もいる。

そうやって、自分とは違う子どもたちの輪の中に飛び込んでいくことから新1年生がスタートするわけです。

大人の世界では多様性やダイバーシティという言葉がよく聞かれますが、小さな1年生たちのほうが、よほど多様な世界を生きています。

環境面でも同様ですね。私の専門が水泳なので、よくプールの例えで話をするんですよ。

保育園や幼稚園のプールは厳重に安全管理され、子どもが座って遊んでも大丈夫な深さですよね。それが小学校に入ると、一気に25メートルの大きなプールになります。

子どもにとっては、それまで慣れ親しんでいたプールとは違う「25メートルの大海」に挑まなければいけない。そうした大きな変化の連続です。

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親が教える「良い子」は、子どもにとっての「同調圧力」

――子どもにとっての大きな変化を前にして、新1年生の保護者はどんな関わり方をするべきでしょうか。

木村:保護者としては、「小学校に行ったらこうなんやで、ああなんやで」と教え諭すような関わり方は一切しないほうがいいと思います。

ほとんどの保護者は、

「名前を呼ばれたら大きな声で返事しなさい」
「教室ではちゃんと椅子に座りなさい」
「先生の言うことをちゃんと聞きなさい」
「友だちと仲良くしなさい」

といったことを子どもに言ってしまうのではないでしょうか?

――僕も口に出していると思います。

木村:こうした言葉は、子どもにとっては同調圧力につながってしまうんです。

新1年生は多様な世界です。教室へ行けば、大きな声で返事ができない子や、先生の言うことを聞かない子、ちゃんと椅子に座っていられない子もいるでしょう。

だけど家では「大きな声で返事をするのが良い子」「ちゃんと椅子に座るのが良い子」と言われる。

担任の教員も、良い教員であろうとすればするほど、椅子に座れない子の存在を「自分の学級経営能力の問題だ」ととらえて叱ってしまうかもしれない。

すると子どもは、ちゃんと返事ができない子や椅子に座れない子を見て、子ども心に「自分よりも格下の存在だ」だと思ってしまうのです。

だって、そうした子は親や先生の言う「良い子」ではないから。

これは親や教員が知らず識らずのうちに生み出している同調圧力です。

子どもは良い子であろうとして、先生の言うことを聞きます。ちゃんと椅子に座ります。そして、いつの間にか「できない子を上から目線で見る」ようになっていきます。

そうやって育った子が、これから10年後、20年後のさらに多様化した社会で活躍できるでしょうか? 他者を尊重しながら生きていけるようになるでしょうか?

しかし現実には、小学校1年生ほど多様な世界はないにも関わらず、教室ではどの学年よりも画一的な教育をしています。

「ちゃんと椅子に座って、手を上げて、あてられてから話しましょうね」と。

その結果、2年生くらいになると学級崩壊が起きたりいじめが起きたりして、学校に来られなくなる子がどんどん増えていきます。

小学校で学級崩壊が最も多いのは何年生だと思いますか?

私が見てきた限り、それは2年生。

理由は明確です。1年生では「まずしつけありき」の画一的な教育になっているところが多いからです。その中に入ると、「みんなと一緒のことができない子はダメな子」とされ、排除されてしまう。

これは今、私が最も課題意識を持ち、変えたいと思って取り組んでいることなんですね。だから新1年生の保護者のみなさんにはぜひ伝えたいと思っていました。

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「あんたは、あんた自身の言葉で語らなあかん」

――親が子どもに「良い子」のイメージを植え付けてしまうのは、「学校で遅れを取ってほしくない」という気持ちがあるからだと思うんです。

木村:もちろんそうでしょう。

では、小学校1年生で学ぶべき最も大切なことは何だと思いますか? この時代の1年生が身につけるべき学力の、最上位のものとは?

私は「自分と他者との違いを対等に感じる力」だと思っています。

それは、一人ひとり違った個性を持ち、最も多様な世界となる1年生だからこそ身につけやすい力でもあります。

しつけが必要ないと言うつもりはありません。だけど、それがいちばん大切なことでしょうか。

それよりも最上位にあるべきは、自分と隣にいる友だちとの違いを知り、その違いは対等なものなのだと知ることでしょう。

子どもたちは、多様性がより一層増していく未来を生きていかなければいけない。もはや「自分と友だちが違っていて当たり前」だと教える段階ではありません。

「違っていないとあかん」
「あんたは、あんた自身の言葉で語らなあかん」

と伝えていかなければいけないんです。そして、自分と他者との違いを格上か格下かで見るのではなく、違いを尊重する教育をしていく。

子どもたちの未来はそこにかかっていると思いませんか?

だから、「小学校では先生の言うことをちゃんと聞きなさい」なんて言わなくていいんです。訓練所に入るわけじゃないんですから。

――新型コロナウイルスの影響で、当面は学校に通うこと自体も難しいかもしれません。学びが遅れてしまうことへの心配もあります。「うちの子はまだカタカナが書けないのにどうしよう」とか、「友だちのあの子はもう漢字も読めるのに」とか。

木村:そうした心配は「まっっったくいらん!」と言いたいですね(笑)。

字を書くことや計算をすることが仮に1年生のうちにできなくても、そのうちに絶対覚えます。だから心配しなくても大丈夫。

小学校1年生のテストで100点を取っても、東大に行けるわけではありません。

むしろ私は、幼児教育の教材などを使って早いうちに学んでいた子が、学校へ入ってから学びの新鮮さを失うことのほうが心配です。

小学校1年生とは本来、「この字は難しいなあ、どうやって書いたらいいの?」と楽しみながら学んでいくものですから。

――そういえばうちの息子は知らないうちに、テレビで「Prime Video」の画面を自分で開き、「ウルトラマン」と入力して検索できるようになっていました。

木村:そうでしょう?

ウルトラマンが大好きだから、自然と「ウルトラマン」というカタカナが気になって覚えるんです。興味・関心をふくらませて勝手に吸収し、必要であれば自分のものにしていく。それこそが学びであり、小学校1年生の学びの楽しさです。

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肩書きを外せば、「1つの大人のチーム」になれる

――学校再開の遅れが見込まれる中、先生も当然不安を抱えていると思います。保護者はどのように関わっていけばいいのでしょうか?

木村:今日はね、何回も「保護者」という言葉を使ってきましたが、これを言うのはもうやめませんか?

今が学校にとっての危機であるのは確かです。そんなときに「保護者は」「学校は」「先生は」といった立場や肩書きは、もういらないと思うんですよ。

保護者という肩書きを捨てたら何が残りますか? 校長や副校長、担任という肩書きを捨てたら何が残りますか? 

そこにいるのは完全に対等な「1人の大人」ですよね。

あえて名前を付けるなら、子どもたちのための「サポーター」。

保護者は自分の子どものためだけでなく、周りにいるすべての子どもたちのために存在するサポーターです。

困っている子を見つけたら、サポーターである大人同士が「あの子が困っているので、どうすればいいかを一緒に考えませんか?」と声をかけ合っていけばいいと思います。

すべての肩書きを外せば、子どもたちの前にいる「1つの大人のチーム」になれるんですよ。

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――「保護者として学校とどう付き合うか」という視点ではなく。

木村:そうです。

今は本当に大変な状況で、誰もが「学校だけに任せている場合ではない」と感じているのではないでしょうか。

直近の3月には、全国のほとんどの学校で子どもたちが登校できなくなりました。子どもたちの声が聞こえない校内で、教員の仕事の意味も問い直されています。

どうすれば子どもたちが安心して学べる学校にできるか、そのためにどんな行動ができるか。保護者のみなさんもサポーターとして一緒に考えてほしいと思います。

目の前にいる子どものために行動すれば、自分の子どもにも帰ってきますから。

現実的には、子どもたちが学校と切り離されたままの状況は「あかん」と思います。

大人たちも大変な状況が続きますが、もしかすると「ちょっと仕事が落ち着いて時間の余裕が生まれている」という人もいるかもしれません。

今しかできないこと、今だから変えていけることもあるのでは。

「保護者だから」「先生だから」という意識ではなく、子どもたちのために対等に話し合うサポーター同士という意識なら、「どんなことができますかね?」という話し合いも気軽にできるようになると思うんです。

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