見出し画像

カント哲学の核心 - しんすけの読書日記

考えること、それは自分探しの旅なのだ。だから、ぼくは彷徨さまよって旅が終わることはない。

なぜなら『プロレゴメナ』後半で説かれるように、人間の悟性が、一挙に対象を把握できるような「直観的」なものではなく、概念と概念との関係を積み重ねて考えるしかない「論弁的」なものだからなのだ。
何事も一挙に解決できない。だから自分探しも、長い旅となる。

本書を読んでいるとき、その旅の途中の宿で休憩している自分を感じていた。

そこは『プロレゴメナ』の素晴らしさを、あらためて気づかせてくれる場だった。
今のぼくは、『プロレゴメナ』の冒頭が、教育に対するカントの熱い思いの表現であることを強く思う。

この『プロレゴーメナ』は生徒が使用するためのものではなく、将来の教師が使用するためのものである。

『カント哲学の核心』p20
『カント哲学の核心』


ルソーの『エミール』に感動し寝食を忘れたカントの姿がまざまざと浮かんでくる。
「君たちも哲学の教師になったつもりで、読んでほしい」
カントはそう言いたかったのだと思う。

カントに熱い関心を抱く人には必ず読んでほしい。
常識とか経験をすべて清算して、考えることの何かを熱く疑い問う人に読んでほしい。
読み終えれば、また違う自分を発見することになると思う。

今回は、悟性と言う言葉を身近に感じることができた。
カント翻訳者の中には、悟性を知性と訳す人がいるが、あれはいただけない。

理性が対象を自分のものと把握するのは五感に訴えるものがあっての超越的な行為だからである。

愛する人に「ぼくの悟性は君で充たされてる」って言えば様になるけど、「ぼくの知性は君で充たされてる」って言ったら、「何、気取ってんの!」と引っ叩かれるだろう。
悟性はハートで生じ、知性はヘッドで生じる。
生物学的にはどちらもブレーン(頭脳)がコントロールしているから同じものだけど。

カントを本格的に読み始めたのは三十代後半だったから、もう四十年近く読んでいることになる。
だがカントが分かっているかと問われたら、「わかりません」と答えるだろう。

理学畑を歩いてきたものにとってカントは無縁だと思ったこともある。

ぼくの学生時代は全共闘時代ともいわれ、安田講堂ではカントを馬鹿にするような声さえ聴こえていた。
ドイツ観念論の無様な表現とさえ言う者もいた。

それが逆に、カントへ関心を抱く第一歩だったのかもしれない。
河出版の『純粋理性批判』を手に取りはしたが、何を言ってるのかさっぱりわからなかった。教養学部で哲学は受講したが、それとは別世界のような感じさえしていた。
その本には『永遠平和のために』も所収されていて、正義への熱い視線には心打たれるものがあった。
カントは観念論者なんかじゃないんじゃないか?

それを確かめたくなって読み始めたのが三十代後半なんだから、二十年近い空白は何だったのか。
無我夢中の二十年、それだけだったかもしれない。でもそれが多くの思想を理解しようとする足掛かりになったとさえ今は思う。

カント自身も自分の考え方が観念論ではないことを、下記のように主張している。

 一般に観念論の主張するところはこうである、――思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直観において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には、思考する存在者のそとにあるいかなる対象も実際に対応するものでない、と言うのである。これに反して、私はこう主張する、――物は、我々のそとにある対象であると同時に、また我々の感官の対象として我々に与えられている。しかし物自体がなんであるかということついては、我々は何も知らない、我々はただ物自体の現われであるところの現象がいかなるものであるかを知るにすぎない、換言すれぱ、物が我々の感官を触発して我々のうちに生ぜしめる表象がなんであるかを知るだけである。それだから私とても、我々のそとに物体のあることを承認する。なるほど我々は、物がそれ自体なんであるだろうかということについては、まったく知るところがないにせよ、しかしこの物が我々の感性に影響を与えて生ぜしめたところの表象によって、この物がなんであるかを知り、この表象を物体と名づけるのである、それだから物体という語は、我々にはまったく知られていないがそれにも拘らず実在する対象〔物自体〕の現われであるところの現象を意味するにすぎない。人は、これをしもよく観念論と名づけ得るだろうか。いや、これはまさに〔一般の〕観念論の正反対のものである。

『プロレゴメナ』岩波文庫 p80-81

※カント自身の『プロレゴメナ』を読んでいないなら必ず読んでほしい。
 著者と違う新たな観点での発見が必ずあるはずだから。


余計なことを付け加える。

『プロレゴメナ』は、日本では『プロレゴーメナ』とも表記される。

これはProlegomenaのgoに相当する日本語の表記が存在しないことによる。
「ゴ」の箇所を強調して発音すればいいのだが、表記するには不可能なのだ。

学生時代のドイツ語教師はゲーテのことをゴーテって言っていた。

江戸から明治にかけては、ギョエテと書かれた文献もある。

ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い 斎藤緑雨

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?