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老酒のような

 久しぶりに都心に出てみた。二年ぶりかもしれない。
 直美が亡くなってから一人歩きも興味が失せていた。
 直美はかけは清楚だったけど、お酒が好きな女だった。乱れることを観たことがないから、ぼくよりも強かったのかもしれない。
 でも、いつも楽しそうに飲んでいた。それがぼくには可愛くてしかたなかった。

  古書店街も本屋が減り、若者向けの食堂が増えていた。そして落ち着ける喫茶は激減していた。
 街の装いが老人に合わせることはない。それを痛感させられる。都心に出るのは今日が最後となるだろう。

 幸いに翻訳ものを中心に取り扱う古書店はまだあった。外から観る店の雰囲気は二年前とさほど変わっていない。そこへ足を向けようとしたとき、「あら。しんちゃんじゃありません?」と声をかけられた。
 いまでいうアラフォーとおぼしき女だった。

 直美の教え子であることを思い出した。十年ぶりかもしれない。
 直美は女学校で教員をしていたことがある。そのころ教え子を何人か家まで連れてきたことがあった。
 そして女生徒たちは直美と同じように、ぼくを「しんちゃん」と呼ぶようになっていた。

 直美が教員を止めたのは、乳がんになり乳房を取らねばならなくなったときだった。
「ごめんなさい! ごめんなさい」
 直美はしきりに言った。
「なにを謝ってんだよ。いまは早く退院することだけ考えてるだけで良いじゃないか」
 直美は泣きだした。
「もう、子供も産めなくなってるって言われたの。お医者様に」
 目の前から何かが遠ざかっていくような、そんな哀しみがぼくを襲ってた。
 でもぼくは、正直じゃなかった。
「ぼくは直美がいるだけで十分だよ」
 直美はおえつした。
「しんちゃん。優しすぎるんだょ」
 そのころ直美は三十代半ばを過ぎてたから、ぼくの期待も薄れかけていたのも事実だったが。
 でも、それから三十年以上の二人だけの生活は何事なく続いた。些細ささいなことで喧嘩することもあったけど。

  ぼくが四十歳を少し過ぎた頃だった。
 三十代のころに開発した製品が、世界の各地で評判を呼ぶようになった。
 カスタマー対応は営業に任せておけるから、ぽくが現地に行くことはほとんどなかった。
 それでも営業だけでは解決しないことが少しだけあった。その時は、ぼくも海外出張をした。
 釜山、新竹、香港、東莞、シンガポール、バンコク
 どれもこれもが五日近くかかる出張だった。

 直美は一人だけの生活を嫌ってた。だから出張に出かけるときにはいつも哀しい顔をされなだめるのに苦労した。今ではそれも懐かしい思い出でしかない。

 ぼくの留守中は昔の教え子たちと街に出て遊んでたらしい。

 東莞の出張から帰ったら、香港の友人からぼくに荷物が届いていた。
 ぼくの仕事に対する丁寧いな返礼とともに、老酒らおちゅうが数本入っていた。
 妻とよく酒を交わすことを、飯店での食事の際に話してしまったからだろう。
 老酒は三種類あった。二つまでは直美も飲んだが、ある一つは受け付けなかった。
 古酒に類するものなのだろうか。まったく甘みは無かったが盃に入れるだけで漂ってくる香りは、ぼくには好ましかった。甘味が無いことを直美は嫌ったようだ。
 だが直美の教え子の一人に、この香りが良いと喜ぶものがいた。

 それが目の前にいる女だった。そのころは二十歳を少し過ぎたくらいだったはずだ。

「今日はお一人なんですか?」
「直美は二年ちょっと前に亡くなったんだ」
 女は驚きを隠せなかった。
「ちっとも知らなくて、ごめんなさい」
「謝ることないよ。連絡したのほんの数人だけだから」
「しんちゃん。お食事はまだ?」
「うん。年寄りが気楽に入れそうな店がないから、昼食は抜こうかとも思ってるけど」
「じゃあ、わたしが落ち着ける店にご案内します」
 そういって、女は書店の横の道に足を向けた。ぼくが付いてくると、最初から決めてるみたいだ。
 家に遊びに来た学生や卒業生の大半は、こんな性格のものばかりだった。直美もそんな女だったからだろう。

 女の名前を思いだすことに懸命だった。
 女が店を指し示したときに、ようやく思いだした。
 由佳理。萩原由佳理だった。

  店は街の洋食店という趣があった。古くからあるようだが古書店街ではほとんど表通りしか歩からないから気づかなかったに違いない。
「萩原由佳理さんだったね?」
「あら、覚えてくれてたんだ」
 懸命に思いだしたことを白状した。
「白状しなかった方が嬉しかったかも。でも懸命になるところって相変わらずね」
「萩原さんは、その後結婚したんだよね。だから萩原さんと呼ぶのは拙かったかな」
「大意丈夫です。離婚しちゃったから」
 あっけらかんとしている。
 強いて理由は聞きたくもなかった。

「由佳理君って。お酒好きだったね」
「あら、懐かしい呼び方」
「ごめん、何気なく口にしちまって」
「いいのよ。しんちゃんと先生とで、あのころよく飲んでたものね」
 そうを言われると、理由は分からないけれど目頭が熱くなってしまった。

「しんちゃんは、今でも同じところに住んでるの?」
「住んでるけど、電話なんかは解約しちまったよ」
「携帯電話は、持ってるんでしょ?」
 それには嘘で答えてしまった。
「それも解約しちゃった」
 スマホは持ってるけど、番号を教える気がしなかったからだ。
「世間との連絡はどうしてるの?」
「パソコンのメールで十分だからね」
「じゃあそのアドレスを教えてくれないかしら」
 それも嫌だったがメモ用紙に書いて渡した。
 由佳理はそれを大事そうにバッグにしまった。

  由佳理と別れてからは古書店を数件回って帰宅した。
 パソコンを覗くと、もう由佳理からのメールが届いてた。
  こんどは、どこかで飲みません?
 世間とのつながりを切りたくなっていたけれど、
  老酒が飲める店があればいつでもいいよ。
 と返信した。

 あのとき由佳理から、老酒の香りが漂っていたような幻覚が生まれてたからだろう。

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