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柳家小三治の思い出

岩波の月刊図書の3・4月号に矢野誠一が小三治のことを書いていた。

ぼくが憶えている限りでは、小三治は大喜利にも登場しない地味な芸人だった。

しかし江戸前の芸人って小三治みたいな人を謂うんじゃないかと長年思ってきたものだった。
派手さはないけど、地道な芸を築いてきた人だからそう思わせるに違いない。

小三治と同時代の落語会を支えていたのは、圓楽・談志・志ん朝だった。この三人は噺以外でも活躍していたが、小三治は噺一筋の人だった。

「青菜」って噺。これを味わい深く演じたのも小三治だったからと、今にして想う。派手な芸人では演じることが不可能な演題だから。

小三治は最晩年には、永井荷風に傾倒していたようだ。

それについては、矢野誠一の文章を下記に引用する。

 隠遁を気取り、お上のすることはねっから信用せず、
 それでいながら世情の愚行に対しては醒めた視線を
 そそいでやまなかった荷風散人に感ずるところ大だったように思う。
 もし荷風が生きていたらきっとそうしたように、
 柳家小三治も東京オリンピック・パラリンピックの開催を
 批判し続けていた。

その叛骨精神に改めて感服すると同時に、あの芸が録画でしか観られないことを寂しく感じる。

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