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夏空のモノローグって【自分】を言語化できない人達のお話だったのでは?

って、今ふと思ったな。

思春期における…おけなくてもいいけど

自我の確立ってどれだけ【自分】と【世界】を言語化できるかっていうのは

1つの宿命だと思う。

定義づけでもいい。

書きながら今、ふと思い出した。

某N○Kの子育て番組、スクスク○○○を自分のアンガーマネジメントとして視聴する事があるのだが(なんて稀な視聴者層)

かなり興味深い特集があって

所謂イヤイヤ期というものにありがちなトラブルは本人のうまく言語化できてないという腹立ちへの受け止めが大事と。

例えば朝、Aの行為をしなければならない子供が

「AやだBをする〜」って泣くとする。

渋々Bを許可したのに、すぐに嫌だとかこれは違うと駄々をこね始める。

っていう感じの事の子供目線の発達心理学の先生言葉によると

自我というものを形成する途中なので、言語化がうまくいっておらず

本人は本当にBをしたいのか本人自身も分かっていない事が多い。

コミュニケーションを学んでいる最中なので、たまたま言語化できたのがBであっただけの事がよくあると。

手当り次第に言葉にしてみて、

反応を快/不快で判断しているのだと。


これ、よくよく考えれば大人もそんなに変わらない気がするなぁとふむふむと思った。

この番組を機に、よく感情を因数分解の感覚で分析もどきをしてみるようになったのだが

特に怒り等の感情は、その根本には理解して/理解されたいだったり大体は甘えたい/甘やかされたいの裏返しが多い気がする。

さてさて、夏空のモノローグは子どもたちのお話と私は認識していて

子どもが大人にならずとしても、その一歩、成長する話とも認識している。

であるからにして、大人と子どもの違いを考えてみて

言語化かなと。

何があればー或いは無いから、あんな思春期10000%で悩んでもだもだしているのだろうと考えた時に

自身もついでに振り返ってみて

きちんと自分というものや世界を定義づけたり把握できていれば、

悩みという問題点が分かれば、解決という着地点を目指すなら

起こらないよな……

この物語が始まらない要素には何が必要かというとグダグダ説明した言語化の力だろうなぁと。

大人という定義次第で

子供であっても大人、大人なのに子供という事が成り立つとするなら

夏空のモノローグは徹頭徹尾子どもであること、無意識下に子どもでいる事に拘っている子どもの話だなぁと。

少なくとも小川葵の【明日】は

大人への明日でも

正体不明の明日というよりも

学年進級してクラスメイトにうまく馴染めない居場所の無さへの不安とほぼ同義であると。

いやぁ今もう先生√したくない…あの切実さがどんなものか知ってしまってからでは辛すぎる。

夏空のモノローグって

子どもの時はその視野の狭さ故に命が喪われるのと同じぐらい居場所がないって感じる事は辛いって思ってしまうという瞬間を切り取りった話だったのかなと思う。

それを大人の道理で判断してしまう事に、抗いたい時に読むとよく効くのかもしれない。

人はどうしても何故か辛い事ほど上や下やとにかく順医をつけたがるけど、共感できなかろうが辛いもんは辛いって話?

いや誰か分かるなら私に教えて欲しい……結構ずっと脳みそ絞って頑張ってると思う…。

いい加減寝ます。

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