見下すと学びは失われ、敬意は学びが増殖する

この記事を読んでなぜか思い出したこと。塾を主宰していたとき、学歴で人を判断する親はやりにくかったな、ということ。特に高学歴の親に目立った。自分より学歴が低いと見ると人を見下す。こうした親だと、子どもも大人をナメてかかりがち。成績よくてもトラブルメーカー。 https://maidonanews.jp/article/14750822

そうした親は、何かと見下す。学歴で見下せない場合は経験値で見下そうとしたり、「先生はお若いからご存知ないでしょうが」と、ともかくこちらを軽く見よう、低く見ようとする。私は逆手にとって「そう、ついこないだまで子供だったからこそわかる悩みがあるのですが」と話し出すと、ハッとして居住まいを正して耳を傾けてくれたけど。正直、損してるなあ、と思った。人を見下して良いことなんてないのに。しかも子どもが人を見下してよいことなんか、さらさらないのに。

「こんにゃく問答」という落語がある。廃寺に偽坊主となって住み着いたこんにゃく屋。そこに修行僧が現れて「問答で勝負しろ!」偽物とバレてはたまらないこんにゃく屋、だんまりを決め込んだ。すると修行僧、ジェスチャーで何か伝えてきた。負けじとこんにゃく屋もジェスチャーで返した。

そのやりとり、こんにゃく屋の友人はわけわからない。やがて修行僧が「参りました!」と言ってそそくさと寺から逃げてしまった。わけがわからない友人は修行僧を追いかけてワケを尋ねた。修行僧は「あの人は仏教の真理を教えて下さいました、修行し直します」と。

あいつ、なかなかやるなあ、とこんにゃく屋のことを見直しながら戻ってきたら、こんにゃく屋がカンカンになって怒ってる。ワケを聞くと「あいつ、俺がこんにゃく屋だと知って、お前のこんにゃくは小さいんだろうとか安くまけろとかしつこいから最後にアッカンベーしてやったんだ」

この落語は、偽坊主のこんにゃく屋を学のある僧だと勘違いした修行僧を笑う物語と一般に理解されているが、内田樹氏は「確かに修行僧は真理を学んだのだ」と指摘する。修行僧は一定の敬意をこんにゃく屋に抱いていたからこそ、デタラメなジェスチャーからもヒントを得ることができたのだ、と。

相手に敬意を抱くからこそ学びは発生する。これはそうだろうなあ、と思う。相手を軽く見よう、小バカにしようとしてるときは、相手のアラ探しばかりしている。相手に「ほう」と思うようなことが見つかっても「たまたまだ、あいつにそんなことができるはずがない」と軽視、あるいは無視する。

高学歴の親の幾割かはそういう人がいて、人を見下すことを親から学ぶのか、子どもも大人をナメてかかるようになる。当然ながら、子どもは学びが減る。相手を見下すための小知恵を働かせるようにはなるが、せっかくの学びの機会を見逃すようになる。もったいないなあ、と思う。

吉田松陰は黒船に乗り込むのに失敗した後、牢屋に放り込まれた。そこには様々な罪人がいた。しかし書のうまい人とか、それぞれの才能に驚き、その人たちから学ぼうとした。牢屋では学び合いが始まったという。

松蔭は長州藩に戻り、松下村塾を主宰すると、自分が教えるというより、生徒一人一人の言葉に驚き、面白がり、そこから学ぶという姿勢であったという。松下村塾から多数の英傑が発生したのは、松蔭自身が範を示した「相手に敬意を抱き、相手から学び取る」という姿勢が塾全体に及んだからだろう。

これはソクラテスにも言える。ソクラテスは若者から人気があった。ソクラテスは若者の発言に驚き、面白がった。「へえ、それはどういうこと?」ソクラテスから問われた若者は、ウンウン考えては話す。それにまたソクラテスが驚き、問いを重ねる。すると若者は、自分から知恵がコンコンと湧くのに驚く。

ソクラテスから問いを受けると思考が刺激され、自分の頭から知恵がコンコンと湧く。離れると枯れてしまう。だから若者たちはソクラテスのそばにいたがった。ソクラテスの弟子たち(プラトンなど)が大成したのは、誰へも敬意を抱き、誰からも学ぶという姿勢をソクラテスから学んだからだろう。

勉強のできた人は「スゴイ!」と人からほめられた体験が多く、その快感を求めてほめられようとする。「僕って、私ってすごいでしょ!」しかし大人になると子どもの頃のように心から驚いてくれる人に出会わなくなる。で、ほめられたいがゆがんで、見下したい、に変化する気がする。

大人になったら、ほめられる立場、驚かれる立場から、ほめる立場、相手のパフォーマンスに驚く立場に変わり、人を育てる側に変わる必要がある。しかし高学歴の人の幾分かは、ほめられ慣れ過ぎて、ほめられようとばかりする。それがうまくいかなくなって、「見下す」に変化してる気がする。

冒頭の記事に戻ると、多分編集者の記載で変わってしまってるだろうけど、学校の先生を見下す空気を親御さんから感じてしまう。もちろん、先生とのめぐり合わせが悪かった可能性もある。ただ、人間は軽蔑とか、自分を見下してるという態度に敏感。親のその態度が子どもに移ってる可能性もある。

こうした子どもは実に指導しにくい。ここで素直があれば大きな学びを得るのに、表面的な知識の多さで人を見下すマウントばかりする。ああ、この子は大切なことを学べなくなってるなあ、と残念に思う。こうした子どもは必ずと言ってよいほど(私の体験では)親が人を見下しがち。

見下された側は当然ながら面白くない。こうなると、逆にアラ探しし、見下してよい理由づくりに励む心理になる。見下そうとする人間は見下されがちになる。こうして関係性は悪化しやすくなる。果たして冒頭の記事の親子がどうかは分からないが、そういう親子をたくさん見てきた。

うちの子は学ぶ意欲が強く、本もよく読む。だから学校で習うこともあらかじめ知っていたりする。このままでは「浮きこぼれ」するな、と思い、私はことさら教えないように心がけた。親が教えさえしなければ、いくら本を読んでいても知識に欠落がある。誤解も起きる。

そうした欠落や誤解を学校で補って頂こうと考えている。どうやらうちの子らは授業が楽しいらしく、「今日はこんなことを習ってきた」と教えてくれる。欠落が埋められたり、誤解を解かれたりすることで新たな発見を授業でさせてもらえるのが楽しいらしい。

私もYouMeさんも、先生から子どもの様子を聞くのが大好き。家では見せない子どもの姿というのがある。それを先生の前では見せているわけで、私達の知らない側面を観察し、子どもに接してくれている貴重な存在。毎度驚かされるし、子どもの成長を見守って下さる姿勢をとてもありがたいと感謝している。

ご近所の皆さんも驚くような能力を発揮する。丸太を削ってミツバチの巣を作る人、毎日鎌で刈って、草一本庭に生えていない見事な庭の家の人、いつもうちの子らを気遣い、声をかけてくれる人。なんてみなさん優しいんだろう、ありがたいことだと思う。

そのせいか、うちの子らは、どんな大人からも、同級生からも、「あの人はこんなすごいところがあって」「〇〇ちゃんはすごくてね」と、よく驚いて、私達に報告してくれる。他者に敬意で接するためか、周囲の大人の方からかわいがってもらえている様子。

先日、自宅の草刈り機がオジャンになったと思っていたら、ご近所の方が持ち帰り、適切な部品交換までして持ってきて下さった。私にはできない芸当。すごい方々がまあ、ご近所に揃っていること!すごいな、ありがたいな、と思う。

もし、冒頭の記事の親子が、学校への不信感、先生への不信感から姿勢が始まっていたのだとしたら、関係性が悪化する原因はそこから始まっている可能性がある。人間は、自分に敬意を抱く人に悪意を持つことはめったにない。しかし軽侮の姿勢が出ている人間には軽侮で応える。そんな生き物だと思う。

高学歴の親が、「学校の先生は程度が低い」と言ってるのを何度も聞いたことがある。ああ、損をしてるなあ、と思う。学びも減る。もったいないなあ、と私なんかは思う。

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