実力も運のうち

知人は「運も実力のうち」と言った。確かにその知人は実力者でもあった。しかしマイケル・サンデル氏の本のタイトルは「実力も運のうち」。私はこちらの方に納得がいく。私は京大に入れたけど、「運が良かった」という感触が強い。私のような凡才は、運の助けがなければ京大に入れてない。

私は中学2年の終わり頃、転機となる2つの出来事があった。それについては以前まとめたので繰り返さないが、それらがなければ私は勉強なんてしようと思わず、もちろん大学に進学しようなんて考えなかったろう。

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あと2つ、「運だな」と思う出来事があった。高校卒業真近で、母が死病にかかったと父から告げられた。私は大学受験に失敗しており、浪人することが決まっていた。「大学に行かせてやれんかもしれん。もし助からないとはっきりしたら、日本中を旅して思い出を作ってやりたい」。私は腹をくくった。

母が入院し、兄弟3人で家事を分担することになったが、学校も部活もある弟たちより、どうしても浪人の私に負担がかかる。思うように勉強時間がとれず、「これは本格的な受験勉強は無理だ」と思い、センター試験に特化した勉強にし、模試で高得点をとって、入院中の母親を安心させてやろうとした。

センター型の模試はおかげで高得点。しかし二次試験対策はまるでとれず、ボロボロ。それでも、まもなく死ぬかもしれない母が心安らかにいられるなら、それで構わないと思っていた。母が死んだら、どうせ大学に行けないだろうし、と。

幸いに母は助かった。死病だと聞かされていたが、実際手術が遅れていたら死んでいたろうと医師から聞かされたが、幸い、生還することができた。しかし自宅で療養するようになっても家事をする体力がない。家事の負担が大きく、やはり勉強時間を十分確保できなかった。

センター試験対策ばかりやっていたせいか、本番で800点満点中731点という高得点。これでみんな勘違い。京大に受かる!と。しかし私は二次試験対策がまるでとれておらず、無理だとわかっていた。センター試験と似た、素直な問題を出す他の国立大学なら行けるが、変則的な問題を出す京大はムリ。

しかしこれだけの高得点で受けないのおかしい、という周囲の声に押されて、受験。しかしやはり京大の変則的な問題に全く太刀打ちできず、京大は不合格。
後期に受けていた国立大学へ進学することに決めた。

しかし私は、やりきった感を持っていた。受験があるからといって家事から逃げなかった。母が死ぬかもしれない、もう大学進学は無理かもしれないという中で精一杯やった。京大は落ちたが中堅大学には受かった。それでいいじゃないか、と。

そう思えたのは、道向かいに住んでおられたおばあちゃんの存在が大きい。これについては以前まとめたが、自分の頑張りを見ててくれていた人がいた、大学名など関係なく、私の「素」を見、認めてくれた、というのが大きい。

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通い始めた大学は素朴で、楽しかった。京大に行けなかったのは残念だが、それなりに納得。
しかし母は納得いかなかったらしい。模試試験でよい成績ばかり見せて勘違いさせたのかもしれない。死ぬかもしれない人に心配かけないよう、センター型の模試だけ力入れたのがアダに。

「なんで阪大受けなかったの?」と何度もかき口説かれた。もう終わったことなのだから言っても仕方ないことなのに。比較的素直な問題が出る阪大や名大の二次試験なら前期で受ければ受かっただろう。しかし後期試験で受かる大学ではない。前期で京大を受けた以上、選択肢から外れるのは仕方なかった。

ある日、母が近づき「あんたは阪大も神戸大も、受けても受からんかった、って思えばええんやな」と言い捨てて立ち去った。
・・・は?私はその言葉を受けとめられなかった。母は働きづめに働いて死病にかかった。だから死病にかかり、そのために受験勉強に時間を割けなくなったことに恨みはなかった。

けれど、京大に合格するには、あまりにも家事に時間をとられて勉強できなかったのは事実。京大はムリだと私は考えていたのに、母も含めて京大を受けるよう勧めていたのも事実。ただ、それらの声に押されてつい京大を受けてしまった私の判断ミスも事実。どう整理したらよいのか大混乱。

父はその件を聞いて大激怒。「お前が大病するから信は勉強時間とれんかったんやろうが!自分が死にかけたせいやというのを棚に上げて何を言うか!」
頭の中がグルグル回って青い顔をしてる私を見て「もう一度挑戦したらいい」と。それでもう一度、京大を受けることに決めた。

今の大学に通いながら受験勉強することに。しかし財布に110円しかなくなった。ささやかな楽しみにしていた六十円の自販機カップコーヒーを飲んだらもう明日は飲めない。まだ我が家の家計は火の車どころかケシズミ状態。やむなく大学を途中から休み、アルバイト。

当時は幸い、人手不足倒産が話題になるほどで、トラックターミナルで働いたら学費を稼ぐことができた。これで翌年の入学金と授業料で悩む必要もない。お金の算段をつけて受験勉強に専念。今度は京大に合格することができた。

母からは「京大受かって嬉しかったやろう」と言われるように。正直、微妙な気持ち。京大というのは私の外側でしかない。それは私ではない。私の外側についてる飾りでしかない。それよりは母が大病してる時に家事から逃げなかった自分を見てほしかった。母を喜ばせようとした自分を見てほしかった。

私は何も変わっていないのに、京大に受かったとたんチヤホヤする人たちに戸惑った。母の余計な一言がなければ、父から京大を受け直すことをオーケーする話にならなかっただろう。これは運でしかない。私の自己イメージは、京大の前に所属した中堅大学のまま。あるいは。

母が大病の時に死んでいたら、高卒だっただろう。もう高校を卒業してしまっていたから、就職も苦労したに違いない。私は、いくつかの運で人生が変わった。必ず京大に行く人間ではなかった。まさに「実力も運のうち」だと思う。

ちょっと追記。浪人してる時、中国残留日本人婦人の特集が流れていた。日本に帰ることができなかった不幸を嘆く人が多い中、一人だけニコニコいつも楽しそうな女性が。きっと中国に残っても幸せな人生を送ることができた幸運な人だったのだろう。と思いきや、凄絶な人生を歩んでおられた方だった。

ご本人は中国に残ることになった経緯を語ろうとしなかったが、日本に帰国した弟さんが取材に応じた。「姉は私達の犠牲になったのです」。
その女性は、父と継母、腹違いの弟たちと四人で満州から港へと徒歩で逃避行。しかし道中の厳しさで父が病死。3人で何とか港にたどり着いた。

しかし所持金では二人しか船に乗せられないと言われた。その時女性は継母に「あなたは跡取り息子を日本に連れて帰る責任があります。あなたと弟二人が船に乗りなさい」。自ら中国に残ることを決めた。十四歳の娘が、なんの身よりもなく、日本への恨みを持つ人も多い中国に残る、と。

弟さんは大粒の涙を流しながら、その経緯を語った。そのことを記者が女性に告げると、何かを思い出したのか、涙を浮かべたが、すぐに笑って「あら恥ずかしい、こんなことで泣いたりして。お釈迦様が笑ってるよ、こんなことで泣くのか、って」と、またケラケラ笑った。私は圧倒された。

成功して自分の実力だと考えるのはたやすい。しかし過酷な運命を甘受し、笑顔を絶やさないのは難しい。そうした人たちが大勢いるから、世の中は成り立つ。私はどちらかというと、そうした人たちの生き方にこそ魅力を感じる。

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