環境に材料をちりばめても、決して勧めない、先回りしない

身体から言葉が出ているので常日頃面白いと思っている人がいて。その人は娘を進学のため自分の母親(娘から見たらおばあちゃん)のもとに預けているのだけれど、おばあちゃんは、材料を孫の環境中にちりばめるのだけれど、決してああしろ、こうしろとは言わないのだという。

「これやってみたら?」と勧めると、子どもはしばしば興味を失う。大人がその奥深くを知っているのを察して。その分野で何かを達成しても大人が驚かないのを察して。それどころかもっと先へ進めと催促しかねないのを察して。何より、「この子の活躍は私のおかげ」という恩着せがましさを予感して。

だから、興味を持つかどうかは別として、材料を環境中にちりばめておく。ちりばめておくが、それに興味を持つかどうかは子ども次第。勧めたり誘導したりしない。たまたま子どもが興味を持ったとしても、そこで喜んで勧めたりしない。「へえ、面白いのに興味持ったね」と軽く驚くくらいで。

子どもは、「私が見つけた!」と思いたいし、「私が道を切り開いた!」と思いたい。その様子に親や大人に驚いてほしい。ならば、変に勧めたり教えたりせず、子どもが自らの力で選び取り、進んでいく様子に驚き、面白がっていればいいのだと思う。

ちなみに、こちらが材料をちりばめたとしても興味を持つとは限らない。私は図鑑を子どもがいつでも読めるような場所に置いていたが、興味を持たなかった。原因ははっきりしている。私が勧めたから。「お父さんもこの図鑑が好きでね、よく読んでいた」と言った図鑑は開こうともしなかった。

他方、知人がくれた図鑑は擦り切れるほど読んだ。私が読んだことのないものだからだろう。そして息子が時折知識を披露してくれるのに驚いた。自らの力でそれらを会得したことに驚いて。教えもしないのに理路整然と理解していることに驚いて。
大人の手アカがついたものに、うちの子は興味を持たない。

この失敗から、私は自分の読んだことのないものを渡すようになった。「これ、おもろいかどうかわからんけど」。すると、貪るように読む。そして内容を私に教えてくれる。私はへええ、と驚くばかり。すると、私の知らないことをどんどん吸収しようと貪欲に学ぶ。

材料は環境中にちりばめたとしても、それを決して子どもに勧めたりしない。子どもが興味関心を示したときに「それはね」などと先回りして説明したりしない。子どもが自ら選び取り、子どもが自ら進むのを待つ。そして子どもが「ねえ、見て見て」「聞いて」と言ってきたときに視線を送り、耳を傾ける。

そして子どもの様子に驚き、面白がる。それが大切なのだと思う。そのおばあちゃんは、子育てのうまい人だなあ、と思う。母親のその人もそれが分かっているから娘が進学するにあたり、預ける気になったのだろう。

こう考えると、子育てで「教える」というのは、相当に後退させて考えたほうが良いことが分かる。教えることよりも、子どもが自ら嬉々として学ぶこと、学ぶことを楽しむことを優先したほうがよい。そうすると勝手に学ぶから。指導者は、そうした環境を用意するのが関の山。

しかし、この環境があるかないかはやはり大きい。子どもが自ら学び、進んでいく様子に驚き、面白がる大人が一人、そばにいるかどうか。子どもに常に「後回り」し、子どもが昨日まで「できない」だったことが今日「できる」に変わった「差分」に気づき、それに驚けるか。

子どもの学ぶ意欲は、そうした環境によって育まれるのだと思う。一般的な、「教える」で指導するのとは全く逆の指導法だけれど、カーネギー「人を動かす」なども同じ理屈になっている。人を育てるのは、子どもも大人も同じなのだろう。

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