「分からない」の大切さ

「サイン、コサイン、タンジェントってなんだ?」と息子(小三)が言うので、高校の教科書引っ張り出して渡した。教えないから、もちろん分からない。分からないなりになんとか理解しようとウンウンしていた。若干、教えたくなる衝動が湧くけども、教えずほったらかし。教えない方がよいと思うから。

何か間違った理解の方向に行ってるようだけど、放っておいた。間違って理解した、というのも、大切な肥やしになると思うから。私たちは長いこと勘違いしてきた過ちに気づいた時、「そうだったのか!」と強い衝撃を受ける。すると理解も深くなり、何より忘れない。

だから、触れるには触れたけど、よく分からなかった、というフラストレーションも大事。「あれは何だったのか?」という不満、あるいはわかった気になって後で恥ずかしい思いをするようなことも、大切。それがあるから、知りたくなる。今度は間違いなく理解してやる、と意欲が湧く。

私は、早くに理解すること、習得することを重視していない。理解習得はなんならずっと後でも構わない。それよりも、学ぶ意欲を高めることを重視する。そのためには、教えないことがかなり大切。教えてもらうと苦労がないから喜びが少ない。しかし苦労して自力で理解できたときは強い達成感がある。

その場では分からなかった、できなかった、ということも大切。分かりたい、できるようになりたい、という欲求が高まるので、いつか理解できる素地が育ったとき、カツーンと理解できる。その時の喜びは大変強烈なものになる。ところが。

教えてもらった上で分からなかった、できなかった、は、逆に意欲が甚だ削がれる。教えてもらった場合、理解できるのが当たり前、できるようになるのが当たり前、へと、ハードルが上がる。このため、できなかったとき、自己評価はゼロどころかマイナスになる。

教えられさえしなければ、分からなくてもできなくても、今までの自分と同じ。別に自分を低く見る必要はない。「いつか分かるようになりたい」という意欲が高まるだけに終わる。
「教えない」という接し方は、いつ理解できるようになるかはコントロールできない。その子次第。しかし。

分かるようになりたい、できるようになりたい、という意欲が高まるから、結果的に学ぶ速度、深さ、広さも最大になる。意欲さえ高まれば、教えるよりも結果的に早く学ぶ。
だから私は教えない。意欲が高まるよう、コナはかけるけど。

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