ありもしないものを存在するかのように錯覚させる「言葉」

昔、燃えるという現象を説明するのにフロギストン(燃素)という物質がある、と信じられていた。その後、酸素が見つかり、燃える(燃焼)という現象は酸素と激しく反応することだとわかるまで、かなり長らく信じられてきたらしい。今となっては、ありもしないものをあるかのように信じてた事例。

このように、言葉が生まれるとあたかもそれが存在するかのように受けとってしまう仕組みが人間にはあるらしい。一見科学的で合理的に説明するものだから、その言葉はあくまで「仮説」でしかないのに、言葉が生まれると実在するかのように受けとめ、それについて語る言説も積み重なると、信じてしまう。

プラトンの言う「イデア」もその一つかも。例えば馬の場合、黒い馬、白い馬、大きい馬、小さい馬、たてがみの長い馬、そうでない馬など、一匹として同じ馬はいない。なのに人間は「馬」と一括りにできる。これは純粋な馬の「イデア」が存在するからだ、という。

「イデア」なんて言葉が生まれてしまうと、イデアとは何か、ということを真剣に論じ始めてしまう。実際、プラトンの解説書では、イデアについて長々と説明されたりする。それを理解するのに、現代人は難渋することになる。なぜなら、イデアなんか存在せず、現代人は「概念」に置き換えているから。

概念とは、馬だったら馬の概(おおむ)ねのイメージのこと。
馬はヒヅメが一つだとか、首が長いとか、エサはこういうものを好むとか、胃袋はいくつだとか、他の生物にはない、でも馬なら共通してもつ特徴を挙げていく。それによって馬の概念が段々明確になっていく。

現代人はイデアよりも概念の方が適切であることをなんとなく知ってるものだから、プラトンのイデア論に付き合うのが面倒くさくなる。それ、今理解しなきゃいけない?という気がするのに、プラトンのイデア論についての長々とした解説を読まなきゃいけないとなると、研究者でもないなら、面倒。

まあ、人工知能の研究の話を聞いてると、「イデア」みたいなのが人工知能の中に生まれてるかも、と感じることがある。Google翻訳が急に正確になったとき、その解説を読むと、日本語でも英語でもない「何か」が人工知能の中に生まれたから、適切に柔軟に訳せるようになったのでは?と。

今のGoogle翻訳は、直訳ではなく意訳に近いことも可能。「真意」をつかみ、それを訳出する感じ。伝えたい「何か」をつかみ、それをある国の言語で表現する。その、言語では表せない「何か」は、まるでイデアのよう。

だから、プラトンの言っていた「イデア」が、温故知新で蘇ることはあり得るとは思う。だから、今から見れば間違っていたことも、未来には新しい着想の種子になる可能性はあるから、頭の片隅には入れておいて良いのかもしれない。

カントの「悟性」とか「理性」も、言葉が生まれたことであたかも存在するかのように捉えられたもののように思う。今の認知科学を知ってる人間からしたら、かなり違和感があって、現代人が理解しようと思うと面倒くさい。フロギストンを論じてるのを逐一理解するムダさみたいなのを感じてしまう。

もちろん、人間はこの世界をどう認識しているのか、ということを徹底して追究した先駆者としての偉業はいささかも揺るがない。けれど、カントの言ったことをすべて正しいと捉える必要はないように思う。理性悟性の定義を、素人である私達がわざわざ正確に理解しようとしなくてもよいように思う。

理性や悟性という定義も、今から見ればフロギストンと同じ、仮説として生まれた言葉なのだと思う。もちろん、そういう仮説を生んだから酸素という存在も明確に意識できたという貢献はしてるので、現代人が見下すのはおかしい。でも、いまだに有効な仮説かというと、違うように思う。

哲学は特に、デカルトが厳密な世界観を描こうとプロジェクトを提案して以来、やたらと定義を明確にし、それを理解しなければ前に進めないようなものになってしまった時期が長いけど、「今、その言葉を大切にする必要、ある?」と感じることも多々。見直しは必要な気がする。

フロギストン的な、今となっては理解しなくてもよいもの、そうでなく、現代でも認められるもの、現在も仮説にとどまっているもの。そうした整理をしていったほうがよいかな、と。過去の偉人が言った言葉をすべて後生大事にしなきゃいけない義理は、現代人の素人にはないように思う。

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