「頼りにする」と「甘える(依存する)」

「頼りにする」と「甘える」の違いについて少し言語化できそうなので試してみる。人間は頼りにされることが結構好きだ。 頼りにされると自分が頼りになる人間になったような気がして心地よい。頼りにされるともっと喜んでもらおうと張り切ってしまう。

他方「甘える」は、依存されるという意味になると大変気が重くなる。やってくれることを当然視されているような気がして気が重くなる。やってあげない場合は不満に思い、やってあげても言葉の上ではお礼を言うけど実際には感謝していないことを感じてしまう。まるで奴隷になったような気分。

頼りにされる場合は主導権がこちら側にある。やってあげるのもやってあげないのもこちら次第。やってあげれば驚き、喜んでもらえるが、やらなくても別にそれは当然のように捉えてくれる。主導権がこちら側にある場合、次はどんなことをやってあげて驚かしてやろうとちょっとワクワクするところがある。

甘えられる、依存してくる場合は主導権がこちら側になく向こう側になる。 何かやってあげてもそれは当然視される。 やってあげてもやってあげても底なし沼のように好意が奪い取られていく。疲弊し、やってあげることがだんだん辛くなっていく。なんだか自分がその人の下僕になったような気分になる。

甘えてくる、依存してくる人は、こちらが善人に見られたいという欲求があるのをうまく利用している部分がある。「あなたは善人ですよね?だったら私を助けるのは当然ですよね?」そうした善人枠にこちらを押し込め、善人として振る舞うことを強制しようとしてくる。

甘えや依存は、真綿で包まれたような強制がこちらの心を蝕んでいく。善人として振舞うこと以外を許されない自由度のなさが疲れをもたらす。やってあげても驚きというプレゼントがない。やってあげても当然視されるということは、底なし沼感が非常に強くなる。

頼りにする場合は、やってもらえないことが前提となる。やってもらえたら超ラッキー。 だから驚く。驚くと驚かれた側はとても嬉しくなる。 人間は人を驚かすのが大好きだからだ。やってもらえることを当然視されていないから次もまた驚いてくれる。 驚いてくれるのが嬉しくてまたやってあげたくなる。

頼りにする場合はやってくれることを当然視していない。だからやってもらえた時に驚く。驚くからやってあげた方はとても嬉しくなる。
甘える、依存する場合はやってくれることを当然視している。 だからやってもらえた時にも全然驚かない。 驚かないから相手はやってあげることがしんどくなる。

驚くという反応はプレゼントであり、驚かないという反応は搾取になるのかもしれない。
頼りにすることと甘えることとの違いは、相手がやってくれることを当然視しないか当然視するのか、それにより驚くか驚かないのか、の違いなのかもしれない。

もう一つ大きな違いがあるような気がする。 頼りにするという場合は自分で出来ることは精一杯既にやっている。 しかし自分の力だけではどうしようもない部分を助けて下さい、と言える。この場合頼りにされた側はとても嬉しくなる。 自分で精一杯のことをやる人は次も甘えてくるという心配が少ない。

自分で精一杯のことをやった上で頼りにしてくる場合は、頼りにされた側も頼もしく感じる。自分で何とかしようとするその意志の強さに頼もしさを感じ今後が楽しみだという気持ちにさせてくれる。 それをアシストできることを光栄にさえ感じることがある。

しかし甘える、依存するという場合は、自分でできることを精一杯やってるとはとても感じられない。 自分でできることも相手任せにして、できるだけサボろうとしていると感じてしまう。そうした力強さのなさが底なし沼感を強めるのかもしれない。

私は人を大いに頼りにしてよいと考えている。 頼りにされるととても嬉しいからだ。 ただし、甘えている、依存しているというふうに捉えられないようにするためには、 自分でできることは精一杯やる姿勢がとても大切になる。精一杯やった上で頼りにすることはほとんどの人が喜んで引き受けてくれる。

ただ願わくば頼りにされた時にやってあげるだけの余裕がある社会をぜひ目指して欲しい。 今の日本はちょっと余裕がなさすぎる。 頼りにされてもやってあげる余裕がない人が非常に増えているのが気がかりだ。 そのことが社会をギスギスしたものに変えているような気がしてならない。

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