n=1をおろそかにしない

新型コロナが流行する前は「エビデンス」大流行だった。何か主張するたび「エビデンスは?」理系出身の人が増えたからか、事例数(n数)が十分ないと正しいとは言い切れない、という考えを持つ人が増え、そのスタイルで相手をへこまそうという人が多かった。しかし、新型コロナ流行後。

一年ほど経つと、以前ほどはエビデンスにやかましい人は減ったように思う。新型コロナ流行初期はまだ「エビデンスを出せ!」と言うひとが結構いたけれど、エビデンスが揃うのを待っていたら手遅れになるということが、新型コロナの度重なる流行で多くの方が痛感するところとなったらしい。

ある理論を正しいとするためには、事例数をしっかり稼ぎ、エビデンスとして示す必要がある。これはいささかも揺るぎがない。しかし、理論が形成される前は、そもそも事例が少ない。エビデンスが揃っていない。揃えようがない。揃えようがないのに「揃えてからモノを言え」と言うのは無茶。

医療の世界では症例報告というのがある。非常に珍しい、一万人に一人みたいな希少な病気は、理論を打ち立てるほどの事例数を稼ぐのは無理がある。一例だけ紹介して「エビデンスは?一例だけじゃエビデンスにならない。もっと事例数を出せ、そうじゃなきゃ存在すら認められない」なんて言ったら。

一万人に一人は確実に発生する病気でも、「エビデンスは?事例数を出せ!」攻撃で各個撃退され、症例を集める作業さえバカにされ、ついにその病気の存在を認識することすらできなくなるかもしれない。これでは大問題。だからそのために症例報告がある。

既存の病気とはどうも原因や症状が異なる。治療をしても思うような効果がない。過去に類似例が見られない事例が見つかったら、とりあえず症例報告する。
すると、世界のどこかで「あ!その症例、診たことがある!」という医師がいるかもしれない。すると事例数はn=2に増える。

少しずつ症例報告が積み上がると、「どうやらこれは、これまで知られていなかった病気の一つらしい」と認識できる。こうして、一万人に一人といった、医師が生涯出会うかどうかもわからない病気の発見を可能にしている。たったn=1の事例数をバカにしないからできる発見。

ある理論が打ち立てられる前は、必ずn=1の事例数から始まる。誰かがそれにふと気がつき、念のため記録し、報告するから、誰かの目に留まり、「それ、私も見た!」となり、n数(事例数)が積み上がっていく。こうしてようやく、「エビデンス」が固まっていく。

研究は、n=1から始まる。まだ誰も気づいていなかったこと、見過ごしていたこと、他の現象と同じだと混同していたことを、「あれ?」と気がつくことから始まる。そしてその事例の発生が珍しい場合、自分一人で2例目を見つけるのは無理なこともある。だから。

たった一例(n=1)であっても、「こんなことあったよ!」と伝えることには価値がある。しかもそれは、専門家でなくても構わない。むしろ専門家は、知識がありすぎて、珍しい現象に出会っても「あ、それはね」と、手持ちの知識で料理して、既に知られてる現象だと片付けてしまうことが多い。

アリジゴクは排泄(ウンコおしっこ)をしないことは常識だったらしいけど、小学生がふと観察して見つけたことから、アリジゴクも排泄することが分かった、という話が話題になったことがある。アリジゴクが排泄するのは珍しいことなので、発見が難しい。変に思い込みのない小学生だからできたのかも。

私はn=1が大好き。まだ誰も知らない、気づいていない新現象の可能性があるから。私はn=1の事例をたくさん集めて、ネタ帳にしている。もし2例目に出会えたとしたら、それは新現象の可能性が高くなる。3例目が出たらかなり間違いない。そうした出会いがないか、いつも楽しみにしている。

私はn=2に出会う確率を上げるために、n=1の事例をしゃぶり尽くすように観察する。その特徴を調べ上げ、そのうちの一つでも気がついたら、2例目を見逃さずに済むように。

私は子育てでもn=1を大切にしている。というより、子どもは全員個性があり、同じ子は一人もいない。みんな違う。そういう意味では、人間はみなn=1で、n=2にしようがない。けれど。
そんな個性的な人間でも、インフルエンザとか水虫とか、共通の病気にかかる。ということは。

病気に限らず、人間の様々な特徴は、共通する人がどこかにいる。喜び方、悲しみ方、怒り方、何に喜び、何を面白がるのか。全員同じではないけれど、「この人とあの人はこの特徴で共通しているなあ」という発見は可能。それが可能になるのは、n=1をしゃぶり尽くすように観察するから。

こう対応したらこの人は喜んだ。あの人は逆に怒った。でも別の人は最初の人と同じように喜んだ。二番目の人は何が違うのだろう?一番目と三番目の共通点は何だろう?と観察を続けると、四番目、五番目の人はどちら側か、だんだん予測ができるようになっていく。

こうしたことを繰り返すと、自分の中で「エビデンス」が積み上がっていく。しかしそれが可能になるのは、エビデンスとはとても呼べないn=1を疎かにせず、医療での症例報告のように観察しまくり、特徴を洗い出してるからできること。

研究者は、n=1をおろそかにしてはいけないと思う。まずはそこから研究がスタートする。これは奇妙だ、と思ったら、よく観察し、特徴を調べ上げておく。するとn=2に出会ったとき、見逃す恐れが小さくなる。気づきやすくなる。その結果、新現象と出会える。

子育てもそうした面がある。たとえ子沢山の家庭でも、子どもは一人一人違う。全員n=1。だから、n=1をよく観察し、調べ上げられることは全部調べ上げ、その子がまた同じ問題に陥りそうになったとき、対策を練っておく必要がある。たった一人でも、n=1でも、その子には何度も起きる再現性がある。

そして、その子に有効だった対策は、全員ではないが、似た特徴を備える子には有効な可能性がある。これにより、希少例にも対応できる柔軟性が育める。
n=1を軽んじない。子育てでも研究でも、その姿勢が大切なような気がしている。

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