アダム・スミスは干渉し過ぎを戒めてるだけ

アダム・スミス「諸国民の富」を読む前、かなり警戒していた。何しろ「神の見えざる手」とか言って、自由放任が一番、市場原理主義、新自由主義の生みの親なんだからなあ、と。
ところが読んでみると感じがいい。新自由主義と全然違う。とても好感が持てる内容。ケチつけるとこなし。

「見えざる手」(スミスは「神の」とは言ってない)は、いわば子育てで干渉し過ぎたらあかんよ、という意味くらいに捉えた方がよい、と感じた。当時の国家は貿易とか経済活動にあれこれ口出しするのが普通で、そのためにかえって経済活動の邪魔になってる、というもの。

では自由放任でよいかというと、そんなことはない。子育てでも、程よい関わりというのは必要。アダム・スミスの時代はともかく干渉したがりの時代だったから、「あんまり干渉し過ぎなさんな」と止めに入ってるけど、適度な関わりを否定してる訳ではないな、と読み取れた。

「小鮮を烹(に)るがごとくす」という言葉がある。煮物の小魚をいじくり回すと煮崩れするからあんまりいじくるな、という意味。スミスの言いたかったのはそういう程度のことだと思う。しかし新自由主義の人達の話だと、鍋に小魚も入れてないうちから「いじくるな、ほっとけ」と言ってるようなもの。

小魚を形よく煮るには、鍋に程よい数の魚を入れ、程よく水を入れ、程よく煮込んで、程よく味付けして、その上で、後は変にいじくらずにほっとく、ことが必要。程よい介入と、程よい不干渉。そのバランスが大切。これをスミスも否定してるとは思えない。

ソ連のような全体主義国家は、小魚いじりまくりだから、スミスは反対したろう。いわば、サッカーの監督がコートの中の選手にいちいち指示通り従うのを求めるようなもの。そんなんじゃ敵にゴール決められまくる。ある程度大枠のことだけ決めたら、選手の裁量に任せた方がよい。

新自由主義の場合、審判さえ見てないところなら敵の選手を殴っても蹴っても構わない、と、影で容認しかねない感じ。なんなら監督さえ「岩盤規制」と呼びかねない。手でボール触っちゃいけないってルールも「規制緩和しろ」と言いかねない。もうそれ、サッカーなん?スミスはそんなこと言わないと思う。

私は子育てに関して、「能動感」を子どもが味わえるよう、干渉を最小限にしている。しかし子どもが克服できなさそうな課題は与えない。危険なことが起きないように配慮する。その上で寄り添い、見守り、子どもが能動的に動いたときに驚き、面白がるようにしている。

スミスの伝えたかったことも、子育てと同じだよ、ということのように思う。完全自由放任ではない。子どもがあと少しで「できない」を「できる」に変えられそうだという時に干渉せず、見守ること。干渉し過ぎないようにする、というのは、「見守り」のことだと思う。

新自由主義の人達とアダム・スミスとの決定的な違いは、「観察」だと思う。「諸国民の富」を読むと、非常にたくさんの現実の経済現象をかき集めていることに驚かされる。スミスは自分の頭で理屈をこねくり回すのではなく、現象をよく観察し、そこから何かを学び取ろうとしている。

対して新自由主義の人たちは、頭の中でこねくり回した理屈だけで理論を組み立ててる感じ。そして、その理論を権威づけるためにスミスの後光を借りてる感じ。直接的根拠のない、へ理屈に見える。スミスの威を借りる形。現象を、現実を見ようとしていない。

現実に起きていることを「例外は常にある、学問的には小さなこと、大きな流れは正しい」として無視。「学問をしていない人間は、現象に振り回され勝ちだよ」と、現実より理論を貴ぶ。新自由主義の人たちはこの傾向が強い。しかしアダム・スミスはともかく観察。現象をよく見る人。アプローチ全然違う。

私は若干(かなり)疑っているのだが、新自由主義とは、金持ちのための学問では?と。
岩波新書「ケインズ」には、アメリカの経済学者には研究予算がなく、資産家からの寄付で研究費をまかなう構造のため、新自由主義が流行する素地になっていることを指摘している。

金融緩和したり規制緩和したりすると、金融にチャネルが多く、企業にも投資している資産家に資金が流れ込みやすい。それでいて、働く労働者はあまり改善されない。労働者が払った税金を金持ちにタダでお金を配ってるような構造。この構造の目くらましに、新自由主義の理論が用いられてる格好。

新自由主義の理論家は、この構造を分かってて主張している可能性が高いのでは?と、結構な疑いを持っている。金持ちに迎合する理論を言えば研究費もつき、メディアにも大きく取り上げられ、社会的地位も上昇する。金持ちと新自由主義学者との共依存。

アダム・スミスが新自由主義を支持するとは到底思えない。むしろ新自由主義がもたらした弊害を、現象をよく「観察」し、どう対処すべきかを提言したことだろう。スミスは理論先行の頭でっかちではない。現実観察優先の、イギリス経験主義の典型的な人だから。

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