子どもにどのくらい干渉したらいい?・・・能動性を指標にして

子育てでは、口出し手出しし過ぎてはダメ、といわれる。他方、子どもには愛情を注ぎ、特には厳しく叱り、子どもをきちんと見守るべきだともいう。自由放任しろというのか、親が厳しく監督すべきといっているのか、どっちかわからない、という親御さん(あるいは教育指導者)は多いように思う。

私は子どもの「能動性」を目印にして、子どもへの接し方をその都度決めている。子どもが自らいろんなことに挑戦し、学び、成長していく能動性が確保されているならいらぬ手出しをしない。その能動性が維持されるような環境づくりに努力するだけ。

人間は勉強嫌い、働くのも嫌い、と信じられているフシがある。しかし、私は、人間は学ぶのが大好きだし、人の役に立つのも大好きだと考えている。学ぶことも働くことも、本来は放っておいても能動的に取り組むものだと考えている。

しかし、本来は大好きなはずの学ぶことと働くことを嫌がるように仕向ける環境がある。強制。
「宿題はしたの?」「勉強しないと将来苦労するよ」という脅しや、はやく取り組めという強制は、子どもに限らず大人も嫌になる声掛け。たとえ好きなものでも他人から強制されるとやりたくなくなる。

「え?もう宿題やったの!」と驚いたり、「え?その仕事片づけてくれたの!」と驚いたり。そのように、子どもや部下が能動的に取り組んだ時に驚いて見せると、してやったり、と嬉しくなるらしい。また驚かしてやろう、とさらに能動性が高まる。

こちらが「宿題をする方が不思議」「働こうとする方が不思議」という気構えでいると、能動的にそれらの課題を片付けたことにこちらは驚かざるを得ない。驚くと、子どもや部下はその気構えの存在に気がつき、「これをやればこの人を驚かすことができる」と分かって、嬉しくなり、能動的に取り組む。

そう、能動的に動くような環境、構造とは、「これをすればこの人を驚かすことができる」というこちらの気構えのこと。その気構えに子どもや部下が気づくと、何をすればこの人を驚かすことができるのかが分かる。すると、それをして驚かしたくなる。

逆に、能動性を奪う気構えというのがある。「宿題やるのは当然」「その仕事をこなすのは当然」という期待。何かを当然視する期待があると、子どもや部下は、それをやり遂げたとしても親や上司は当たり前だと考えて驚きもせず、むしろ次なる課題をさせようとするだろうと気がつき、辟易する。

人間というのはなかなか敏感にできていて、「これをやってもこの人は驚くどころか当然視して、さらにやらせようと調子に乗るだけだな」と、ほんのちょっとした言葉のやり取りや態度で察知する。すると、子どもや部下はやる気をなくす。やっても驚かないどころか、当然視するから。

やがて、親や上司は子どもや部下が動かないことにイライラし、怒ったり叱ったりして、恐怖で子どもや部下を追い立てようとする。子どもや部下は仕方なく、大損しない程度に指示通りに動く。しかし指示された以上は動かないということで反抗してみせる。いわゆる指示待ち人間のできあがり。

私は、気構えを逆転させたほうがよいと考えている。「宿題?そりゃ面倒くさいよね。やらないのが自然だよ」「仕事?大変だよね。やらなくても仕方ないよ」と、むしろやらないことが自然であり、期待せず、現状をそのまま認める気構えでいると。

子どもがたまたま宿題をしたとき、部下がたまたま気を利かせて仕事をしたとき、親や上司は驚かされることになる。「え!やったの!」すると、驚かすことができた、自分は驚くべきことを成し遂げたのだ、という達成感が得られて、楽しくなる。また驚かしたいと思うようになる。

期待すると人は動かなくなる。指示したこと以上はしようとしなくなる、能動性の失われた状態になる。
だから、期待しないほうがよい。ただ、「期待しない」と表現すると、「あいつはどうせ」と、子どもや部下を心理的に見捨てる意味に勘違いされやすい。しかしそうではない。

「祈り」に近いように思う。赤ちゃんがいつ言葉を話すか、立つようになるかは、親にとっても気がかり。期待したいけれど、赤ちゃん次第だから親としてはどうしようもない。言葉が通じないから教えようもない。ただ親としては祈るしかない。祈っていると、ある日、言葉を発したり立ったりする。

そのとき、親は驚く。教えられもしないのに言葉を話すようになる奇跡に。教えようもなかった立ち方を赤ちゃんが能動的にマスターしてしまうことの奇跡に。
そう、子どもや部下が能動的に動くことは、奇跡。こちらが強制しようもない、本人が自発的に動くしかない、他人にはどうしようもない奇跡。

どうか本人が、能動的に楽しく取り組んでくれますように、と祈る。しかしその「奇跡」が起きるかどうかは祈るしかない。そうした気構えでいると、不思議なものでその「奇跡」が起きる。親を、上司を驚かせようといういたずらめいた、でもほほえましい企みによって。

私は、そうした構造、気構えを子どもや学生、スタッフの皆さんに用意できているかに注意を払っている。もし能動性が失われているようなら、それは私が用意した構造や気構えに問題がある。それをメンテナンスして、やり直す。その繰り返し。でも幸いにも、人間はそうした環境があると能動性を取り戻す。

それは恐らく、人間は能動的に取り組むことが大好きだから。誰からも強制されず、自分の考えと意思で取り組むことが楽しい。しかもそうして取り組んだことで、脇で驚いてくれる人がいると楽しさ倍増。そうすると、人間は能動性を取り戻すもののように思う。

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