飢餓を鎮めるには

アフリカなどの貧しい地域での食料危機への対策は、食料を
・現地でたくさん作る
・現地にたくさん送る
のどちらかが選ばれる。食料が足りないんだから食料がたくさんあればいいんだろ、というシンプルな推理。しかしアマルティア・セン「貧困と飢饉」を読むと、かえって飢餓を深刻化させることも。

セン氏が分析したのは、いずれも歴史に残る大飢饉。しかしそれらのいずれも、餓死者を出さずに済むだけの食料が国内にあった。この点は、日本の江戸時代に起きた享保、天明、天保の大飢饉にも言える。国内には餓死者を出さずに済むだけの食料があった。なのに分配が機能せず、大量の餓死者が出た。

食料の「分配」には
・自ら食料を買う
・政府が食料を配る
などの方法がある。この中のどれかが機能しないとき、飢饉は起きる。

食料を買おうにもお金がなければ手に入らない。飢饉が起きるときは、手元にお金がない人が大勢いる。市場には食料があふれていても、それに手を出せずに餓死する。

食料援助をしても、お金のない人に食料が届かなければ意味がない。もしその国でマスコミが機能していない場合、援助食料を横流しして売ろうとする輩の動きを止められない。そもそも、マスコミが機能していないと、食料危機が発生してることに政府が気がつかないことも。

不思議なことに、飢饉では都会の人間が餓死することは少ないのに、食料を作ってるはずの農家が餓死することが多い。
お金がなくて餓死する人たち→農産物が売れなくてお金がなくなる農家→タネ代も地代も払えなくなり、農地を売る→農地激安、大して金にならず、たちまち困窮→餓死
という流れ。

食料援助がたくさん行われると、農家は農産物が売れず、お金がなくなり、生活に困窮し、農地を売らざるを得なくなったりする。一時的な援助ならまだしも、長く続けられると農家は農作物が売れず、困窮し、かえって生活困窮者が増え、飢餓を深刻化させる恐れもある。

インドは第二次大戦後、独立し、その後、深刻な飢饉は発生していない。ベンガル大飢饉以上の凶作があったのに。対策は、生活困窮者を雇用し、賃金を渡したこと。そのお金で農作物を買う。農作物が売れるから農家も生活できるし、食料の不足分も、売れるから他の地方から運ばれてくる。

現在の経済システムでは、お金がない人は存在しないことになる。飢え、潜在需要はあっても、お金がなければ需要とみなされない。お金がなければ潜在需要とさえみなされない。
食料危機に対する処方箋は(急場をしのぐ食料支援を除き)、雇用を生むことでお金が行き渡るようにし、潜在需要を顕在化することなのかもしれない。

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