私の考える理想の親像 マシューと陸徳志

私にとって、理想とする親・指導者像は、両方とも小説の登場人物なのだけれど、「赤毛のアン」の主人公の養父、マシューと、「大地の子」の主人公の養父、陸徳志。中でもマシューは、女性とまともに話をすることもできない不器用な人間として描かれている。なのになぜ理想の指導者に映るのか。

マシューは主人公のアンが喜べば自分も喜び、アンが悲しんでいるとどうすればよいかとオロオロし、どうかアンが幸せでありますようにと心から祈る。アンが成長する姿を目を細めて眺め、アンはそれが分かるから毎日話して聞かせ、マシューを自分の成長で驚かせたいと願うようになっていく。

「大地の子」の主人公、陸一心も同様で、自分の成長、できなかったことができていくのをことのほか養父が驚き、喜んでくれるものだから、それが嬉しくてますます努力する。マシューや陸徳志のような親であれば、子どもはきっと意欲的に物事に取り組み、素晴らしく成長するように思う。

ところで、この二人の登場人物には共通点がある。どちらも養父であること。あともう一つは、主人公を見捨てようとしたことがあること。
マシューとマリラは、本当は男の子を養子としてもらうはずだった。ところが手違いで女の子のアンが来てしまった。これではダメだということで。

アンは別の家にもらわれる手はずになった。そのとき、マシューは止めることができなかった。いや、止めなかった。止めなかった自分を激しく責めた。たまたま妹のマリラが、預け先の過酷な様子を見て心変わりし、アンを引き取ることに決めたことで、マシューは安堵するとともに。

一度は見捨てた、という後ろめたさを抱えることになったのではないか。その後ろめたさがあるから、この子を自分の思い通りに育てようなんておこがましい、アンの絶対的な応援団になろう、と心に決めたのかもしれない。だからアンにあれこれ言わず、ただただ、アンの成長に驚き、喜ぶようになったのかも。

陸徳志も同様。混乱の最中にあり、自分たち夫婦も食べていけない中、日本人孤児を養くことなどできないと思い、誰かに拾われるようにと、町の片隅に捨てた。
しかし強い悔恨が襲い、その場に戻ると陸一心がしがみつき、泣きじゃくった。その時、どんなことがあってもこの子を育てようと決心。

一度は捨てた後ろめたさがあったためか、陸徳志は一心をあれこれ自分の思い通りに育てようとせず、応援団に徹した。自分の一つ一つの成長に驚き、喜んでくれる養父を見て、主人公の陸一心は学問にも精を出し、楽しんで努力するように。

児童心理学や教育学の本をたくさん読んだけど、どんな親であればよいのか、イメージが結実しにくい中で、マシューと陸徳志は、ぴったり合った。この二人のありようは、子どもが何事にも意欲的に能動的に取り組むようになるエッセンスが散りばめられているように思う。

実は親なら誰しも、マシューであり、陸徳志である時期を過ごすことになる。子どもが赤ちゃんのとき。
赤ちゃんは言葉が通じない。だから何も教えることができない。赤ちゃんの成長は、赤ちゃん自身がつかみ取るしかない。その現実を認めざるを得ず、ただ健やかな成長を祈るしかない。

するとある日、赤ちゃんが言葉を話したり、立ったりしたとき、「今の、しゃべったよね?」「立った!立った!」と驚き、大喜び。赤ちゃんはどこかで、このときのことを覚えているのだと思う。自分が成長すると驚き、喜んでくれる。そのことを知っているから。

幼児は、できなかったことができるようになると「ねえ、見て見て」といい、自分の成長で親を驚かせようとするのだろう。私は、子どもが赤ちゃんのときの親の接し方は、指導者として理想的だと考えている。その時の接し方を、生涯続ければよいのだと思う。ところが少なからずの親が。

子どもが言葉を話せるようになると、親は言葉で子どもを操ろうとしてしまう。先回りして「それはこうしたらうまくいくよ」「これはこうした方がいいよ」。
子どもは本当は、自分で試行錯誤し、やり方を見つけたい。そして自分の力でできるようになったことを、親に驚いてほしい。なのに。

親が先回りして教えてしまうと、子どもは大変な楽しみを奪われてしまう。自分でそのやり方を見つけたかったのに。クイズの答えを先に教えられてしまうような、推理小説の真犯人を読み進める前に教えられてしまうような残念感。

しかも、親が先回りして教えるということは、親はそれを知っているということ。ということは、それがしできるようになっても親は驚かない。それどころか、親は「私が教えたおかげだ」と、自分の手柄にしてしまう。子どもは手柄の立てようがなくなり、面白くない。このため、意欲を失ってしまう。

親は、先回りせず、ただひたすら子どもの成長に驚いていればよいのだと思う。特に、子どもの工夫や挑戦、発見に驚けば、子どもはそれらに取り組む楽しみ、喜びをいつまでも味わうことができるばかりでなく、親が驚くことで楽しみが増幅する。やがて工夫や挑戦、発見を楽しむ力は。

ありとあらゆる学びを楽しむ力となり、様々な課題を解決する、試行錯誤する力となる。だから親は、子どもが工夫や挑戦、発見する様子に驚き、面白がればよいのだと思う。赤ちゃんが立とうとして、あれこれ工夫しては尻もちついていたときの気持ちを思い出して。

サヘル・ローズさんの「戦場から女優へ」を読んで、サヘルさんのお母さんは、マシューや陸徳志に似ていると思った。サヘルさんのお母さんは、養母。孤児となったサヘルさんを救った経緯があったけど、独身で名家出身だったので、引き取るのを諦めざるを得なかった。

しかし貰い手がなく、サヘルさんは孤児のまま。お母さんはどこかで、この子を育てようと決心したのだろう。それによって、名家の娘として裕福に生きていける人生を台無しにしてしまうリスクをとって。
それでも決心が揺るがなかったのは、もしかしたら「一度はこの子を見捨てた」悔いがあったのかも。

親は誰しも、「悔い」を持ったことがあるのではないか。育児に疲れ、思い通りにならないことに苛立ち、「もうあんたのことは知らん!」と、子どもをどこかで「見捨てる」ような心理になったことが。そしてそのことに愕然とし、悔い、この子の親として生きよう、と心に誓うという経験が。

それは仕方のないことだと思う。そしてその悔いがあるからこそ、子どもの成長をひたすら祈ろう、という気持ちを持つようになり、「親」になるのだと思う。
私は、もしそうした「悔い」があるなら、子どもの成長をひたすら祈る気持ちを維持する糧にしたらよいのだと思う。

子どもの成長をひたすら祈り、子どもが工夫や挑戦、発見する様子に驚き、面白がる。親はもう、それだけでよいのだと思う。その接し方こそが、子どもの意欲を生み出し、工夫・挑戦・発見する力を育み、やがて親元を離れて「第三者の海」に漕ぎ出ることを可能にするのだと思う。

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