「科学的」考

「科学的」考。
新型コロナでさらによく目にするようになった気がするのだけど、「自分の方が科学的、現場の声も聞き、エビデンスもある。自分の意見と違う人間は非科学的」と、他者を否定する主張。
実は、自分こそが科学的で他の意見は非科学的、とする態度こそが非科学的、という皮肉な話。

科学の営みはまさに「群盲象を撫でる」そのもの。
自分のつかんだ事実こそが正しく、他の意見は間違ってると否定する行為は、ゾウのしっぽをつかんで「呼び鈴のヒモに決まってるだろう!太さ、長さ、高さ、端に房があるなど、あらゆる証拠が呼び鈴のヒモだと立証してる!」と主張するようなもの。

耳を触った人間はカーテンと主張するし、鼻を握った人は大きな吹奏楽器だと言うし、キバを抱えた人は武器だと言うし。みんな触った事実に自信があるから、他の人間の主張が実にバカげて聞こえる。「そんなわけあるか!どう考えても呼び鈴のヒモに決まっとろうが!」

自分こそが科学的で、他の報告はすべて非科学的、と断じれば、声の大きさだけで勝負するようなもの。
けれど科学は、自分のつかんだ証拠も、他の人がつかんだ証拠も、同列に見ることを求める。そして、「事実」と「解釈」を混同しないことを求める。たとえば。

呼び鈴のヒモにたとえるとちょうどよい太さ、長さ、端に房があることは「事実」、だけどその事実に基づいて「呼び鈴のヒモ」だと考えたのは「解釈」。解釈は参考にすることはあっても、事実とごちゃ混ぜにしないよう気をつける。

ゾウの耳をカーテンだと感じた人の場合、胸の高さまでしかないこと、布のような薄さであること、などは「事実」でも、それをカーテンだと考えることは「解釈」。自分の解釈を絶対視して他の主張を否定しないようにし、「事実」をみんなと共有する。

あとは「みんな、同じものを触ってるんだよね?」という点さえ共有できれば、目の見えない人たちでも、いつかそれが、ゾウだと見破ることができる。科学は、「事実」と「解釈」を切り分け、「解釈」は参考にはするけど鵜呑みにせず、あらゆる「事実」を包摂的に説明できる仮説を紡ぐ作業。

だから科学は、誰かだけを絶対的正しさには置かない。もし自分を「正しい」と断じ、他の事実を否定したら、科学的ではなくなってしまう。
科学では、面白いことに、「こんな証拠が出たら自分の信念を覆します」という弱点をさらけ出すことを求める。反証可能性という。

どんな事実を示しても「いやそれは」と屁理屈並べて、自分の解釈が決して間違っていないと主張することは、反証可能性を認めておらず、科学的ではなくなる。科学は、
・自分を絶対正しいとは考えない。
・反証可能性という弱点をさらけ出す
ことを求める。これが崩れると科学的でなくなる。

科学のことを、絶対的正しさを証明する学問だと捉えてる人がいるけど、残念ながらそれは誤り。「科学的に証明された」という言葉は、実はもうやめた方がよいフレーズ。「科学的に蓋然性が高い」が精一杯。それが科学。

私は、新型コロナについてもいろいろ見解を述べるけど、「蓋然性が高い」と「私が考える」という限界付きで述べているつもり。自分が絶対正しいとは思っていない。自分の知らなかった事実が見つかれば、それも包括できる仮説に組み替えるつもりでいる。

昔、科学は99%が仮説、とかいったタイトルの本があった。私は遠慮がちだなあ、と思った。「100%仮説に決まってるやん」というのが私の立場。私たちは絶対的理論は構築できない。ただ、かなり蓋然性の高い(おおよそ正しいと思われる)仮説なら紡げる、そんな程度のもの。

新型コロナは、科学の捉え方を多くの人に考え直すきっかけを与えている面がある。科学は「おおよそ正しいと思われる」仮説を紡ぎ、いつでもそれをひっくり返せる弱点をさらけ出すもの、という自覚が必要。
私も気をつけていきたい。年取ると自分こそが正しいと言いたくなるみたいだから。

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