競争的資金から交付金へ

また調べ直さなきゃだけど、数年前に調べたら、交付金と競争的資金の合計額は増えてた。だったら競争的資金の一部を交付金に回した方がええと思う。ここ二十年で「研究者を金欠に追い詰めたら必死になって研究が進むだろう」という仮説はものの見事に否定されたと思う。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29599?page=3&layout=b

現場にいて思うに、何も言わなくても出してくれる研究費(交付金)を減らして、申請しなきゃもらえない研究費(競争的資金)を増やすと、何が起きるかというと、「作文が上手」で「器用に立ち回る人」が大型予算を取りやすい、という傾向が強まるように思う。

正直、大した仕事じゃなくても表現の上手さで仕事できるふうを演じるのが上手い研究者はいる。そして作文が上手いから競争的資金をガッポリ獲得してる人もいる。他方、面白い研究してるのに、成果も出してるのに作文が上手くなくて競争的資金が一向に獲得できない研究者がいる。見てて残念。

本当に意義のある研究と、競争的資金を獲得できる研究は別、という問題もある。競争的資金は申請後、審査を受ける。審査委員が知らない話はウケない。ある程度、審査委員が「知ってる知ってる」と反応できる言葉を散りばめる必要がある。それもなるべく最新の流行語を含めて。そして一部だけ新しく。

しかし研究者の中には、誰もそこに足を踏み入れていない世界に行きたがる人がいる。私はこっちの方が好きだし、意義があると考えている。のだが、そういう分野は、研究されたとしてもウン十年前の事例しかなく、審査委員からみて「これ、やる価値あるん?」と疑問に思われがち。すると採択されず。

競争的資金は、申請書に書いたこと以外に研究費を使っちゃいけないとなってる。器用な研究者は、申請した内容から逸脱しない範囲で挑戦的な、うまくいくかどうか分からない実験も重ね、次の研究テーマの「仕込み」を行うことで、次の競争的資金を獲得するネタを生んでおく。しかし。

不器用な研究者は、競争的資金の「申請したこと以外にお金使っちゃダメ」を愚直に守り、申請書に書いたこと以外の実験をしない。これだと、研究に幅がないので次のネタが出ない。それどころか、申請した実験手法では全部うまく行かなかったとき、立ち往生する。

器用な研究者は、申請書の段階で、申請した方法ではうまくいかない場合も想定して、いろんな手法を試すことも読み込める文章にしておく。これである程度の自由度を確保するので、想定していた方法では全てうまくいかなくても、別の方法で切り抜ける道を見つけたりする。あるいは、仕事やった感を出す。

交付金での研究は、あーだこーだとやかましい条件がないから、不器用な研究者でも「あれがダメならこう」と、いろんな挑戦をする。しかし競争的資金の契約書を読むと、不器用な研究者は変に硬直して、いろんな方法を試す勇気を失う。申請書に書いたこと以外をしちゃいけないという不安にとらわれる。

こうした状態を二十年近くも続けた結果、器用に立ち回ることができ、作文の上手い研究者に予算が集中、不器用だけど面白い研究をしてる人には全く予算がこない、という構造が出来上がってきた。日本で革新的な研究が出なくなったのは、競争的資金偏重の構造が作り出したものだと思う。

競争的資金を獲得した人間が、不器用な研究者も仲間に引き入れてなんとか研究資金が回るようにしたりする。しかし競争的資金はギリギリのスケジュールで成果を出すよう求められるため、みんな「余計な研究」(遊びによる挑戦的な研究)をする余裕がない。ノルマ達成だけで必死。

この結果、全員が新しいテーマの研究をするゆとりを失い、成果の出やすい、あるいは成果が出ることがわかっているテーマを手がけることが増えてしまう。そういう研究は新鮮味に乏しい。画期的なものではない。もちろん申請書では、素晴らしく画期的だとうたってはいるのだけど。

昔の、研究費といえば交付金しかなかった時代は、新人の研究テーマの決め方は「これ、まだ誰もやってないからこれにしとく?」といった感じだったという。いま、日本でその病原菌を手がけてる研究者がいないから、という理由だけ。画期的なことをしようという気負いもなく。でもそのほうが。

誰も歩いたことのない未開拓地を進むから、驚きの成果が出る。「最先端」と呼ばれる分野はある意味、流行していて研究者がウジャウジャしていて、成果も似たりよったりになりやすい。同じテーマに重なることも。でも、未開拓地を選ぶなら、そんな心配はない。

そうした未開拓地から、新しい流行が生まれる。太い幹から伸びるから、その枝葉である「最先端」も大きく生い茂る。基礎研究が大切と言われるが、基礎研究を育てるには交付金がとても相性がよい。

私は今はかなり研究費を稼いでいる方だから、上に書いたことは全部自分に跳ね返ってくるが、もともとの研究の基礎を作ったのは、交付金での研究。私は毎年競争的資金を申請していたけど、鳴かず飛ばずだった。交付金の研究で成果が出だしてから競争的資金が当たるように。正直「遅いよ」。

私は交付金で研究することができたから、腰をすえて誰も手掛けたことのない研究テーマに挑み、鉱脈を発見することができた。鉱脈探しの時には競争的資金が全く当たらなかった。また、もし当たっていたとしたら、今の成果が出たかどうか怪しい。

競争的資金は3年で終わるものが多い。3年後に「こんな成果が出ました」と報告書を書くには、一年目で研究成果の出そうな手法を発見しておかないといけない。残り2年はそのテーマでデータを取得するのに当てなきゃいけないから。となると、挑戦的なことができるのは一年未満。半年空振りだと焦る。

初年度の後半になったら、もう挑戦的なことを続ける勇気を失い、データが出てきそうなテーマに重心を置くようになる。すると、どこかで見たような研究になってしまう。データは取れるがつまらない。
そうしたことが日本中で起きているように思う。

競争的資金を減らして、その分交付金を手厚くした方が研究成果は出るように思う。競争的資金は、ある程度成果が出るようになった分野を促進するのは向いてるけど、革新的なのには本当、相性が悪いように思う。画期的なものが本当に出ないなあ、と思う。

こうしたことは、歴代のノーベル賞受賞者も繰り返し述べている。いい加減、気づいてほしい。
でも、このタイミングでそれをやったら、競争的資金が減るだけで、交付金は増えなさそう。国の体力が失われているから。

悲惨。

で、なぜ政治家は交付金を増やせないかというと。仕事やった感を出せないからだと思う。競争的資金なら「〇〇促進事業」と銘打って、なんか新たな政策始めた感を出せる。しっかり仕事をしました感が出る。成果の出てる研究者を応援してる感じも出せる。
でも交付金は、増額しても仕事やった感なし。

それどころか、研究者の声に押し切られた感が出て面白くないのだろう。この結果、交付金を減らして競争的資金を増やす傾向ばかり続いたのだと思う。
そこで、政治家の人達に「仕事やった感」を味わってもらうアイデアが必要なように思う。たとえば。

「挑戦的研究促進事業」とでも名付けて、実質交付金の増額を計ってはどうだろう。日本は競争的資金に偏る行政を続けて長いから、しばらくは成果が出ないだろうが、10年続けると断然違ってくるように思う。挑戦的なテーマを研究者が続けやすい政策を、政治家も手掛けるようにお願いしたい。

交付金と競争的資金の合計額が年々増えていた事実については、6年前にまとめていた。
https://togetter.com/li/1095784

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