体験は「初めて」「驚き」「味わい尽くす」と「躾(身が美しい)」に至る

体験というのは、最初の出会いで味わい尽くせるかどうかがとても大切らしい。何度も経験してしまうと「よくあること」処理され、感動しなくなってしまう。どうやら体験も、五感と同じで「キャリブレーション」が起きるようだ。

私たちは同じにおいをかぎ続けると、そのにおいを感じなくなる。
視覚も似たことが起きる。赤い色をジッと眺めていて急に白いものに視界が変わると、視界が緑色になる。これはどうやら、変化のない景色を補色で「キャリブレーション」して鈍くし、変化のあるものを鋭敏に感じるための仕組みらしい。

幼児と一緒に歩くと、実に様々な事物に魅了されて、立ち止まることに驚かされる。道端の小さな花、U字溝を流れる水のせせらぎ、壁に貼りつくカタツムリ。大人の私たちがありふれた風景として処理し、「路傍の石」化したもの一つ一つに、子どもたちは珍奇なものとして興味津々。

「さあ、早く行かなきゃ」大人は次の用事までのスケジュールのことで頭いっぱいで、道中で目にするものはすべてよく目にする、ありふれた風景として「キャリブレーション」され、注目するに値しないものにしてしまう。しかし子どもにとってはそうではない。生まれて初めて出会った世界。

大人の都合で立ち止まることを許さないことが続いてしまうと、子どもたちはやがて立ち止まって観察することを諦め、注目しても仕方のない「路傍の石」として処理してしまい、目にしても何も感じなくなってしまう。足下に無限の宇宙が存在してるのに。

二年ほど前から「ムシムシ会」に参加させてもらっている。虫博士と一緒にハイキングしながら、虫と植物を観察しようというもの。
たまげた。ハイキングだと聞いていたのに、1時間たっても2~3メートルしか歩いてない!足下になんと多様な生き物がいることか!こんな進まないハイキング初めて!

体験とは、自然がいっぱいの理想的な環境、美術館や博物館など素晴らしく準備されたところでしか経験できないものではない。コップの中の牛乳に息を吹き込むと泡だらけになる。水だと泡はすぐに消える。日常の中に実に彩り豊かな、興味深い現象がある。

大人はついつい、それら幼児が行う行為をはしたないとして注意してしまう。それが躾だと考えてしまいがち。しかし私は、子どもたちが生まれて初めてのことに気がついて、その現象を味わい尽くそうとしている最中、学習の真っ只中だと考えている。自宅での出来事なら、大概のことは許容してよいと思う。

面白いことに、牛乳を好きなだけ泡だらけにしたことがある子は、その後、それをやらなくなる。注意して止めさせた方が、いつまでたっても止められなくなるらしい。面白いのに最後までやらせてもらえなかった悔しさなのか。かえって躾(身が美しい)から外れてしまう。

現象を味わい尽くし、満足すると、もうそれはやらなくなる。その方が立ち居振る舞いの美しい「躾」になるように思う。躾とは、大人が注意して止めさせ、諦めさせることによって成立するものではなく、体験し尽くし、満足した結果として振る舞うようになった行動、と捉えた方がよいのでは。

観察してると面白いことに、行儀の悪い子とされる子どもは、好奇心が旺盛。やむにやまれぬ好奇心が突き動かしている。こうした子は、注意して止めさせるのではなく、なるべく好きなように体験させ、味わい尽くせるよう、見守った方が、やり尽くした感が得られて、落ち着くことが多いようだ。

躾が本当に美しいなら子どもは必ずその美しさに最後は魅了される。だから焦らなくてよい。道端のダンゴムシ、アリンコに心奪われ、ポケットをドングリでいっぱいにする日々を味わったらよい。強烈な好奇心さえも満足するほど味わい尽くした上での「キャリブレーション」は、「躾」に至るから。

大人が準備した素晴らしい環境で「さあ!子どもたちよ、体験を味わい尽くしなさい!」というと、「え?何でそこ?」というところに子どもは熱中することが多い。これはたぶん理由がある。大人が満を持して準備したということは、大人がよく知ってるということ。ということは、大人は驚かない。

それではつまらないから、大人の想定から外れたことをしたくなる。子どもは大人を驚かせたいから。大人の方がよく知ってることがあらかじめわかってることに手を出したら、得々と教えようとする形で大人からマウンティングされる憂き目に会うことを予想できるから。

大人が先回りできないことに子どもは興味を持つ。すると大人は意外の感に打たれる。子どもはどうも本能的に、大人が驚く方向に動きたいものらしい。好奇心が強い子は特に。
子どもが常に先に立ち、大人は「後廻り」するくらいの気持ちで遅れて立ち、子どものすることに驚いていたらよいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?