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濁浪清風 第55回「宿業」について③

 本願について、曇鸞(どんらん)は「大願業力(だいがんごうりき)」と言い、阿弥陀の仏力について「自在神力」と言っている。大願が成就して報身(ほうじん)・報土(ほうど)となるという『大無量寿経』の物語において、その因位の法蔵菩薩の願に「業力」という言葉を使うのである。果の仏力に「神力」をいうのは、仏土を住持(じゅうじ)し、その仏土に触れてくるものに「不虚作(ふこさ)住持」のはたらきを恵むためである。この住持力に包まれれば、もう求道心が「不破不壊(ふわふえ:破れず壊れず)」であるとされ、功徳(くどく)の宝海に満たされるといわれる。浄土の功徳にいったん触れるなら、もうその仏力の摂取の範囲からこぼれ落ちることはないという。しかし、それに先だって本願の力に業力ということをいうのは、どういう意味であろうか。

 曇鸞は、『浄土論』の偈(げ)を解釈して『浄土論註』の上巻とし、解義分(げぎぶん・天親菩薩自身の解釈部分)を解釈して下巻としている。この上巻の釈には、ある国土をみそなわして苦悩の状況を見て、それを取り除くべく本願を起こすといい、その願の内容が荘厳功徳の言葉の意味となっていると見ている。そして下巻は、成就した国土の不可思議力を語るのだという。これによって考えれば、願力はこの苦悩の娑婆界に対応して、衆生を救済しようとする願心を表現するものであるといえる。

 それについて想い起こされるのは、曽我量深(そがりょうじん)が「宿業(しゅくごう)本能」ということを言われたことである。本能とは、生物に与えられている本来的能力である。人間の理性や分別以前の力である。この本能という語で、法蔵菩薩の物語が言い当てようとする衆生の宗教的な要求を考えようとしているのである。

 この場合、「宿業」は衆生の実存を繋縛(けばく)する業報(ごうほう)であることが、実はその衆生の生存を成立させている能力でもあるということを、言うのである。生存能力ということをよく考えてみれば、確かにわれらに与えられている生命の諸能力は、先祖伝来の生活歴が蓄えてきた不思議な生命の「記憶のたまもの」であると言えるのではなかろうか。

 その業報に重なって、宗教的願心の歩みも、衆生の本能となって歩んでいるのだ、ということであろうか。業報とは、ある意味で負の連鎖に苦しめられることでもある。これが不条理なる逆境から脱出させない縛(しば)りにもなっている。これを超え出させ、マイナスをプラスに転じさせたいという願いが、無限の時をかけてでも業繋(ごうけ)を破らせて、願力自在を感受する場に翻転(ほんてん)させようとする、そういう意欲が本能の如くはたらいているということであろうか。

(2007年12月1日)