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濁浪清風 第28回「他力の努力」⑦

 「人事(じんじ)を尽くして天命(てんめい)を待つ」ということが、普通の処世の常識的な態度というものであろう。この一般的な人生態度に対して、明治の近代化に急ぐ日本の状況のなかで、「天命に安んじて、人事を尽くす」という表現をしたのが、清沢満之(1863~1903)であった。常識の人生訓を逆転して、人生を動かしてくる「他律的」な要素を引き受けて、それに安んずるというのである。このことは単に自己に都合の良い場合のみではなく、いわゆる逆縁であろうとも、天命として引き受けて人事を尽くそうという信念なのである。

 近代日本の大きな流れにおいて、一般的な人生態度がいつの間にか、弱肉強食の競争主義を追いかける近代主義に、すっかり巻き込まれていってしまったのに対すると、「天命に安んずる」と言いつつも、「他」なるものに自己を失うのではなく、自己を外物他人の領域から引きはがして、自己を全面的に成り立たせている「絶対無限の妙用」に安住するところまで確認するのである。これはエピクテタス(55頃~135頃のギリシャの哲人:エピクテタス氏教訓書)に出会ったことを縁として、「自己とは何か」という問いを明白にしていくこととも重なっている。

 「現世を『濁世(じょくせ)』と見よ」と仏教は語りかけるのだが、この世界を濁(にご)らせるものは、私たち人間の欲望(煩悩の一つである「貪欲(とんよく)」で、仮に代表する)だと自覚させるのである。この濁りは単に個人が創り出すものではなく、人類の歴史と共に積み重ねてきた「劫濁(こうじょく)」といわれる面もある。しかし差し当たって、自分がこれにどう関わるのかというとき、これを増殖する方向で関わるのでなく、これを少しでも清める方向で生きようとして見よ、という呼びかけが仏陀の「八正道(はっしょうどう)」であろう。しかし、濁りの重さはとても一人で背負えるような質のものではない。それを背負おうとするなら、腰が抜けるか、肩が砕けるかということになろう。

 本願他力という教えは、一切の人類に濁世を超えて、濁世を清める方向へ生きていく力を与えようとする、人間への深い信頼なのではないか。個人でできるかできないかということではなく、こういう方向への無限なる悲願を信ぜよということではないか。これに乗託(じょうたく)して、全力を尽くしてこの世を「人事を尽くす」場として生きていくことができるのではないか。こういう意味が「天命に安んじて、人事を尽くす」という表現の裡(うち)にはあるのではなかろうか、と感ずることである。

(2005年9月)