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マンガ表現と仏教の相容れなさⅠ(仏教マンガの問題点再考①)

仏教とマンガについて講義しなければならない機会があるので、メモとして考えたことを置いておきたい。

仏教とマンガは実は相性が悪いと思っている。それは、おそらく漫画は一瞬を切り取るメディアだからだと思う。それは漫画の特徴で良さなのだと思う。切り取ることが出来る、一瞬を切り取る。しかし、それは同時に何か膨大なものを捨てて行く事でもあるのだ。しかも同時にそこに、描く者(作者)の自我・エゴが入らざるを得ない。そこが魅力でもあり、逆に作者のエゴがすべて見えてしまうので、一歩間違えれば、題材を奇怪なものに仕立て上げてしまう。
一方で、仏教の本質は人間存在を丸めてしまわない、と言う所にあるのではないか?端的に言えばそれは「覩見」(とけん)と言う言葉に現れている。法蔵菩薩は、ありとあらゆる生命のいのちの姿を覩見したという。それは全てを観たということである。決して人間を丸めない、分ったつもりにならない。しかしマンガはある意味で分かったつもりにならないと描けない部分もある。そうでないと一コマには落とし込めない。
観たままという「ビデオ撮影」のようなことが出来ないのである。漫画は究極の切り取る美学である。しかし言ってみれば法蔵菩薩は絶対に切り取らない存在である。
その根本的な態度の違いが、仏教とマンガの相容れなさである。
以前、水俣に相思社という団体を尋ねた。彼女・彼らは、水俣病の歴史を正確に後世に伝えようという活動をしており、水俣病患者の支援も継続して行っている。相思社の勉強会に出席した時、職員の一人の方がこんなことを言っておられた「私たちは私たちが伝えられたように、水俣病のことを伝えていかなければならない」「地続きに水俣病のことをつたえないといけない」。……これを私はこのように受け取った。水俣病の問題は、決してポップに語ったり、面白おかしく語ったりしてはならない。やっぱりそういう風に伝えられる性質のものではない。例えてみれば今のガザで起きている問題がワイドショーで、芸人によって何か面白おかしく伝えられたとしたら…。そんなことはしてほしくない(しかし、ガザの問題を面白おかしく伝えようとするバラエティー的な報道番組があり絶句する)。そういうことだと思う。そして、仏教もまた、そのように決して面白おかしく伝えることなんてできないと思う。私たちの先生が私たちに伝えてくれたように、伝えなければならない。そのような厳粛なものだと思うのである。
しかし、その一方で、マンガだから子ども達も読んでくれるということもある。このことをどう考えたらいいか?

(終)




(追記)仏教の言葉をマンガ表現に落とし込む際、人々に何かを伝わることがあるとすれば、恐れ(畏れ)の中で一筆一筆刻まれるところに生まれる表現のみではないか。そのような恐れを失い、単なるネタやコンセプトとして仏教が扱われるようになれば、そのようなものは宗教の世俗化を推し進めるだけであり堕落であろう。堕落した表現形式に過ぎない。仏教が権威主義や「いいね」と結びつく可能性はいくらでもあるし、それを私は感じてきたし、それを利用してしまっていた部分もある。しかし、安田先生をはじめ多くの先人の姿を見た時、それは本当に恐ろしいことだと自覚させられた。畏れの中で刻まれるところからでなければ書けないものがあるのではないか。

たとえば以下のマンガは、

実際は何年もお盆参りに行って気づいたことの中のほんの10分程度の出来事に縮小し、さらにそのうちの何分かの景色にフォーカスし、その中でおきた数秒の気づきを切り取って書いたものである。つまりこの中に実際書かれているのは集中して考えれば数秒の出来事である。

しかしこの出来事の背景には、私が何年も通った時間や、このご夫婦の話で言えば、80年近い人生という背景がある、もっと言えば、お参りを続けてきたお寺の歴史。そこに関わった人たち、もっと戻ればもちろん親鸞の生きていた時代からの歴史があるのだから1000年ではきかない歴史があるのである。それをたった数秒にして切り取っている。
更にそれを読むのには、数分しかからないのである。漫画表現がSNSの時代である今も人気があるのは、純粋にエンタメとして楽しいということがある。しかしこのタイムパフォーマンスということも見逃してはならない。この忙しいご時世でも、みんなマンガは読むのだ。それは圧倒的に時間を圧縮したメディアだからだというのがある。そして読むほうも素早く読めるのである。これは確かに利点だ。しかし何か仏教と相いれない恐ろしさがあるのではないか。本が最も”遅い”ツールだろうか?それとも、説法のような語るということこそが最も遅いツールだろうか?それに対してマンガは描くのは時間がかかり、読むのには最もと言っていいほど速いツールである。
もしマンガが最高のツールならば、(もちろん発明はされていなかったが)仏陀も親鸞も使ったろう。しかし、果たして彼らはそれを選んだだろうか?歴史にもしもはないのだが、彼らはそれを使わなかった気がするのだ。何かそれでは欠落するものがある。だから直接話したのではないだろうか。どうだろうか?

仏教マンガの問題点

①時間を切り取る美学であるという点が、仏教の姿勢と相いれない。
②作者の恣意的な形で事実を切り取ってデフォルメしてしまう。
③作者の思想があまりにも出やすい。作者の描きたいように事実をデフォルメできてしまう。そこにエゴ・権威主義・欲望が入り込む。そのことを最も警戒すべき思想にもかかわらず。
④影響力の大きさのゆえ、作者の自我が肥大してしまう。
⑤「いいね」の価値観に利用される。
⑥影響力の大きさゆえ、間違った思想や差別的な思想でも広がりやすい。
小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」がどれほどの日本人に差別思想、排外主義、自己責任的思考を広げたか。ネトウヨ的なものに小林の作品が与えた影響は余りにも大きすぎる。そこから結果的に起こった差別の大きさは、歴史的・災害的規模である。そのことに非常に憤りを覚える。


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追記

真宗の救いは心境ではないのである。親鸞は救いを心境の問題にすることを自性唯心に沈むというふうに、非常に危険なことだと指摘している。しかし、仏教を漫画にすることで、私は仏教の言葉を「感動のフォルダ」に入れてしまっていたのではないだろうか。それは非常に恐ろしいことである。感動として押さえてはならないことが、人間の感動の箱に押し込まれてしまう。その中で人間は仏教のことばすらも、自己の感動のための遊び道具にするのである。そこにも深い問題がある。これは真宗独特の問題かもしれない。



追記2
マンガがどうして、若い人を中心に、読まれやすいのか。また私の実感としても疲れている時や、時間がないときでもマンガは読みやすいイメージがある。それは恐らくこういうことではないか。
文字だけで読む場合は、きわめて自分の想像力が必要である。文字を読んでそれを絵に変換するのは自分の仕事である。文字からイメージや意味内容を理解するのに自分のなかで、イメージを立ち上げる必要がある。そこにある意味でひと手間がいるのである。そこに創造性があり、読書という行為は非常に豊かな創造的行為となる。
マンガは、その読書の要素をサポートする視覚情報としての絵がある。これによって、文字だけではわからないイメージをマンガの作者が既に立ち上げていてくれるのである。このことにより、文字だけでは自分の方でひと手間かけて立ち上げていたイメージを作る作業が、すでに与えられることになる。そのことにより、非常に読みやすくなる。しかし例えば、仏陀(釈尊と呼ぶべきではあるが、ここでは分りやすさのためブッダと表記する)のことの書いた文字だけの本であれば、自分の方でブッダってどんな人だったんだろうと、あれこれ想像するのだが、絵を与えられることで、ブッダのイメージが固定してしまう。これは確かに読みやすいのだが、欠落してしまうものもある。文字だけで書かれているからこそ、読者が自由に仏陀を創造することが出来るし、その空白に考える余白がたくさん生まれる。しかしマンガではその余白がある意味でなくなってしまう。自分で考えるひと手間がないからこそ、そこから新たに立ち上がるアイデアの回路が自分の中から出てこなくなるという危険性はある。もしそこの、イメージの間隙をマンガの作者が悪意を持って埋めれば、実像とかけ離れたイメージが伝わることがある。
マンガは文字をサポートしてくれる機能があるからこそ、多くの人い読みやすいユニバーサルな強みがあるし、それはある意味で親切で優しい。しかし、それであるがゆえに、読者の創造性や、思考の努力の点において欠落してしまうものがある。だから、何かを学ぶ初期の段階で、最も入門的な学びとしてまずはマンガから入るということには非常に意味があろう。しかし、漫画で全てを知ったと思うことはきわめて危険なことである。マンガで知ったのは、漫画作者が勝手に解釈して描いた物事の一面でしかない、嫌一面ですらない、点でしかない。その点でもって、立体的である何ごとかを分かったなどと思うことはきわめて危険である。
こうした危険性も、漫画にはある。読みやすい、これはとても親切で優しいことだ。しかし、読みやすいゆえに分かったつもりになる。何かをすっ飛ばしてしまう。ここに私たちは仏教が漫画として描かれることに、どうしようもない違和感を感じる。それは、仏教というものは分かったと決して言えないような営みであると知っている人ほど、仏教のことが描かれたマンガに絶望的な嫌悪感を持つはずである。そしてこの感覚はきわめてまっとうで大切なものである。そんな速さで伝えないでくれと思うのである。そんなことで何が伝わるのか…。であれば絶望的に伝わらない、言葉のみを通した方がいいと思うのだ。そこでは、分かっているのかなという躊躇が、読者の側あるいは聴者の側にもあるからだ。

仏教マンガは伝道なのか?という問題提起をある方のHPで見たことがある。これは嫌味ではなく、この欠落を感じ、見抜かれていたからのささやかな疑問符なのであろう。とはいえ、間違えていけないのは、漫画というのは一つの芸術表現の分野になっており、また同時に、漫画だからこそ生まれる素晴らしい表現がいくつも誕生してきているということである。このことも忘れてはいけない。であるから、漫画で何かを表現すること自体を抑えることはもうできないし、そんなことをしても意味がない。大切なのは、仏教をマンガで伝えるということの難しさや危険性を理解した上で表現方法を模索していかなければならないということではないだろうか。実はそこにおいて本当に必要なのは、バズるとか、読まれる、読まれやすいなどということとは全く方向性の違う問題領域のことなのだろう。バズるということなどを、意図的に狙おうとする瞬間に、その作者は終わっていくと思う。何かが終わっていく。それをしたら終わりなのだ。もう作家として終わりなんだと思う。


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