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「宗教心」「不安に立つ」安田氏の言葉に学ぶ

昨日、出会った文章がとても大切なことを言っていたので、ここにメモをしておきたい。本多弘之先生の『微笑の素懐』に出てきた言葉である。安田理深先生のことについて、本多先生が以下のように語っていた。非常に心に響いた。

安田先生は何時でも…中略…仏法は法に依るんだ、法に依って救われるんだ、仏法の道理が人を救うんだ、こういうことを話しておられました。『涅槃経』に「信不具足」という言葉がありまして、親鸞聖人もこの「信不具足」の文を『教行信証』に二度にわたってご引用になっておられます。“信ずる”ということには二つあると。一つは“道あり”と信ずる。道ありと信じられないということは「信不具足」であると。私どもはこれが本当に人生の依って立つ道であるということがわからない。善導大師のおっしゃるように、「すでにこの道あり」と、これでいいんだと、なかなかそういう強い、自分の胆の底からこれでいいというようになれない。そういうことが、「信不具足」であると。それから“道あり”とこう信ぜられるところには必ずその道に立っている人がある。“道を得た人”があるということが信ぜられるということでなければ、やはり「信不具足」であると、こういうふうにいわれております。私は安田先生にお遇いすることによって仏法に依って生きる人がある、仏法があるんだということを分からしていただいた。そういう意味で生きた師に遇うということの有難さを教えられたことであります。
 で、仏法に生きる人というのは、決してその人が偉いとか、その人に学問があるとか、あるいは人徳があるとかいうことではない。もちろんそれは相応する場合もあるでしょうけれども、それが本質ではないのであって、仏法の場合は人格を信ずるのではなくて、その人格を人格たらしめている信念、その人が信じておられる道ですね、その道が信ぜられたならば、その道は単に個人の道ではない。その道に立つことによって人が誕生していく。特殊な人間が歩く道ではなくして、その道に立つことによって、同じ悩みを悩むものは、またその道によって救われていく。そういう道ですね。人格といえばその人独自のもの、どういう苦労をしたとか、どういう修行をしたとか、そういうものですね。
 私は学生時代に、安田先生の逸話について、学生らしい感銘をうけたことがあります。それは先生が若い時代に、できるだけの知識を身につけたい、人類の文化を出来るだけ身につけて死にたい。こう思い立たれて、毎日一冊の本を読もうと、こう自分に誓われたということであります。毎日一冊本を読むということは、たいへんなことですけれども、それでも一年間三六五冊、十年間で三千六百五十冊、たとえ百年生きても三万六千五百冊しか本を読めない。世界で発行されている本、いい本だけだって何十万冊とある。一生かかってもそのホンの一部しか読めない。だから遊んでおれないといいますか、無駄に過ごしてはならないということで、がむしゃらに本を読まれた。そういうエピソードがあって、まあ学生らしく、感銘を受けました。そういう人徳といいますか、そういう人を感動させるものがありますけれども、それをいかに真似したところで、私はたすからない。そうではなくして、先生が立っておられた道、先生自身がその前に自己を投げ打っておられる教え、そういうものによって私たちはたすかるのだと思います。
 安田先生は、宗門問題とか、あるいは大谷大学の教育問題とか、そういう問題について、私どもが愚痴を言いに行く。どうしても先生の前へ行って質問したり、お話申し上げたりするうちにそれが愚痴になる。特にそれを背負っている人間であればあるほど愚痴になる。それをお聞きになる先生は心を痛めながら、「教育にしろ宗教の仕事にしろ、殆ど絶望的なのである。しかし、絶望的だからとあきらめられるものなら、やらない方がいい。その絶望するしかないにもかかわらず、本当に立ち上がっていくことができる、絶望であってもやろうと、こういうのが宗教心だ。世間心は計算して出来ることならやる。出来ないとなったらやらない。こういうのが世間心、功利心。しかし求道心は出来るとか出来ないとかは問題ではない。出来ないから止めるというなら、そんなものは宗教心でない」と、こういうように、お叱りをいただいたことであります。愚痴を言おうとは思わないのですけれども、口を開けば愚痴になる。そういうときに、先生は必ずそういう言い方をして下さいました。そして人間の存在というものは助かったといっても、教えによって助かったといって腰を落着けられるようなものではない、常に不安である。
先生がお亡くなりになる、前の晩と思われるのですが、講演に行かれて帰ってこられて、非常に疲れを感じておられたんでしょう。机の上にあった封筒のうえに「死の恐怖、不安に立つ」と記しておられたのであります。八十一歳でお亡くなりになったのですが、自分は老衰だと、心臓が苦しいし呼吸も苦しいということを、しばしばおっしゃっておられました。その老衰のなかで死と直面しながら、自分のいのちなどは構っておれんと、自分のいのちを心配して仏法を語れるかと、こういうことをおっしゃっておられました。そういう意味で、自分のいのちを超えたもの、そういうものを自分の生きる根拠としながら、しかも常に不安とぶつかり合って、それを正直に決してごまかすことなく見据えながら、本願の信に帰っていかれた。どうも宗教の救いというと何かものすごく明るくなる、死の不安も煩悩もぜんぶなくなるのだろうというふうに受けとられがちなんですが、仏法の救い、親鸞聖人の教えというのは、そういうものではないということを本当に目の前で教えて下さった。

本多弘之『微笑の素懐』、文栄堂、1986年、63-67頁

この中にある、「教育にしろ宗教の仕事にしろ、殆ど絶望的なのである。しかし、絶望的だからとあきらめられるものなら、やらない方がいい。その絶望するしかないにもかかわらず、本当に立ち上がっていくことができる、絶望であってもやろうと、こういうのが宗教心だ。世間心は計算して出来ることならやる。出来ないとなったらやらない。こういうのが世間心、功利心。しかし求道心は出来るとか出来ないとかは問題ではない。出来ないから止めるというなら、そんなものは宗教心でない」という言葉に、本当に考えさえられるものがある。私たちはすべて効率ではかって生きている。完成しないなら、成し遂げられないならやる意味はないと思ってしまう。しかし宗教の問題はそういうことではないのだと。ほとんど絶望的なんだと、世の中はほとんど絶望的だ。だけど、やるんだと、絶望的でもやろうというのが宗教心である。ここはうまく言葉にできないのだが、本当にそうだよなと思う。そして、本多弘之先生はそこから仏法の救い、親鸞聖人の教えというのは、不安にたつのほかないのだと、そういうことを教示してくださっている。




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