昨日、出会った文章がとても大切なことを言っていたので、ここにメモをしておきたい。本多弘之先生の『微笑の素懐』に出てきた言葉である。安田理深先生のことについて、本多先生が以下のように語っていた。非常に心に響いた。
この中にある、「教育にしろ宗教の仕事にしろ、殆ど絶望的なのである。しかし、絶望的だからとあきらめられるものなら、やらない方がいい。その絶望するしかないにもかかわらず、本当に立ち上がっていくことができる、絶望であってもやろうと、こういうのが宗教心だ。世間心は計算して出来ることならやる。出来ないとなったらやらない。こういうのが世間心、功利心。しかし求道心は出来るとか出来ないとかは問題ではない。出来ないから止めるというなら、そんなものは宗教心でない」という言葉に、本当に考えさえられるものがある。私たちはすべて効率ではかって生きている。完成しないなら、成し遂げられないならやる意味はないと思ってしまう。しかし宗教の問題はそういうことではないのだと。ほとんど絶望的なんだと、世の中はほとんど絶望的だ。だけど、やるんだと、絶望的でもやろうというのが宗教心である。ここはうまく言葉にできないのだが、本当にそうだよなと思う。そして、本多弘之先生はそこから仏法の救い、親鸞聖人の教えというのは、不安にたつのほかないのだと、そういうことを教示してくださっている。