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1年間の有給休暇とヨハネスブルグサミット

2002年8月から9月にかけて、南アフリカのヨハネスブルグで行われた「国連・持続可能な開発のための世界サミット」(UN-WSSD)に、日本から派遣されたNGOの宿泊・交通担当幹事として、僕は南アフリカの大地を踏んだ。6月には下見旅行までした。

この経験が、その後、人類学・言語学の研究にかかわるきっかけになった。どうしてヨハネスブルグサミットに出向くNGOと付き合うようになったのか。今、思い返してみると、神の導きと思えてくる。そのときのことをここに記録しておこうと思う。

1.富山の環境財団で働くことになる

25年前、僕は東京の赤坂にある、日商岩井エアロスペースという会社に勤務していた。

仕事は、宇宙ステーションに搭載する宇宙開発事業団の観測機器(SMILES)の開発支援、日本の衛星製造メーカーが海外から調達する高信頼性部品の供給などだった。1997年末にロンドン駐在から帰ってきて1年ほどで、住まいは田園都市線の桜新町にある借り上げ社宅だった。

夏に青山で行われたJERS-1(ふよう1号)のシンポジウムのレセプション会場で、東大・生産技術研究所に着任したばかりの安岡善文先生から、富山に行かないかと声をかけられたのだ。

当時、各県にひとつ、国連の旗を立てようというブームがあり、各県に様々な国連専門機関の出先を招致するなかで、富山県は国連環境計画の地域海プロジェクトを選択し、その出先を招致するために、受け皿をして環境省の財団をつくっていた。財源は富山県の一般会計予算で、職員は富山県庁の職員ばかり。そこで衛星リモートセンシング観測データを使って、海洋汚染の監視をしたいというので、リモートセンシングの専門家を探しているというのだ。

子供のときから、いつか環境問題とかかわりたいと思っていたので、その場で「行きます」と返事をした。翌年2月末で日商岩井エアロスペースを退社して、3月から、富山県に赴任することになった。本来であれば、3月1日に辞令授与式というものがあったのだけど、最初の10日間は東京で海洋や水産の専門家にレクチャーをしてもらって、遅れて赴任した。

ちょうど田中康夫が長野県知事になって、県職員に名刺を渡したら目の前で折り曲げられるという「名刺折り曲げ事件」があったころで、単身赴任する父を子供たちが心配してくれた。

2.海洋監視システムの設計・委員会審査・入札書類の作成

この財団は、海洋ゴミ問題の委員会とか、海洋汚染監視とか、テーマに応じた委員会を設置して、名だたる大学の専門家の先生に委員をお願いして、富山に年に一度いらしていただいて、2時間ほどの会議を開くということが行われていた。旅費は出るが、日当とか手当はなしの、名誉職、ボランティア参加だった。移動にかかる時間を考えると、それなりのご負担をおかけしていたが、会議の結果、何かを実行するわけでなく、報告書を承認するといった感じでしたので、やや形式的、形骸的だった。

海洋環境監視のためのリモセンのセンターを設計する話は、僕が赴任したあとで環境省が予算を用意してくれた。「急ぎではないのですが、2億円くらいの概算見積もりを作ってくれませんか。」という電話をもらって、「急ぎではないというのは?」と聞き返すと、「明日までに」ということだった。急ぎというのは今晩中らしい。知り合いに電話をかけまくって、概算見積もりを取り付けた。

どのようなセンターにするかは、僕が考えるのだろうと勝手に考えていたら、なんと三菱総研に委託するという。そんなことしなくてもいいのにと思ったが、信頼されてなかったのだ。財団の専務理事が昔から知り合いだった三菱総研の担当者が呼ばれたのだけど、彼と一緒に僕のリモセン業界の知り合いも打ち合わせにきていた。なんと、三菱総研のなかでどちらが担当するかは競争なのだという。

僕は旧知の世杵氏に、「僕と一緒に仕事をしないか」とこっそりと声をかけただが、彼は「お金は富山県からくるので(トクマルさんとは仕事できないです)」という反応だった。ちなみに彼は社内で出世した。

その晩、僕はめずらしく浪花節で、世杵氏と僕の共通の友人である田中氏に「世杵さんからこんなことを言われたよ」と泣きを入れたところ、翌朝、世杵氏から「一緒にやりましょう」とメールをくれました。

県が用意した予算が700万円、三菱総研の見積もりが1500万円で、これではビジネスとして成り立たない、もう少し予算をかき集めてくれというので、僕から三菱総研に月次検討会議はすべて東京で行うことにするという提案にするよう助言して、それが通ったので、毎月富山県から関係者が東京の大手町に出向くことになった。単身赴任者としては、非常に助かった。そして会議が終わったあとに、三菱総研と膝詰めで細かな打ち合わせをした。

この委員会は2000年の後半に始まり、2001年3月に終わった。先生には、東北大学(1名)、名古屋大学(1名)、九州大学(2名)と旧帝大の先生を中心としていて、じつに豪華だった。でも先生方は2回しか顔を出さず、はじまりに方針に同意し、終わりに報告書にお墨付きを与えるためだった。

年度末のお墨付きの会議が終わった後、三菱総研の担当者に来年度に入ったらすぐに入札したいと言ったら、「困りましたね、それは来年度の仕事のつもりでしたが、、、。仕方ない、それじゃあ、調達品リストをつけないといけないですね。」と言って、4~5ページの調達品リストをつくってくれ、それを報告書に添付してくれた。これで環境省は入札公示ができることになった。三菱総研としてはアリエナイ、破格のサービスで、今でも高橋部長さん(当時)には感謝しています。この高橋部長は、僕が富山に赴任するときに、東京で開かれた壮行会にも参加してくれたのだけど、10年前には別のシステムで大喧嘩をした間柄だった。(笑)

この三菱総研のサービスのおかげで2002年に行う入札が、1年間前倒しになって、入札が2001年下半期に行われ、2002年3月にシステムが稼働した。これで2002年度の僕の仕事はなくなったのだった。

3.入札関連の不正がないかを調べるための?海外出張

話は入札の前後に戻る。入札は、2001年の秋に行われた。入札したのは2社だったのだが、細かな技術的打ち合わせはA社としかしておらず、B社は能力がないと判断していたので、ロクに話もしていなかった。

今思えば、おそらく、僕がA社に入札予定価格をもらしたり、賄賂を要求していないかを調べるためだったのだろう。突然、10月に韓国に出張するように命令を受けた。わりと楽な、会議に参加するだけの出張で、どうして僕が海外出張させてもらえるのだろうか、きっと何か裏があるはずだと、当時思ったことを記憶している。それが入札がらみの調査だったかもしれないと思いいたったのは、最近だ。

この会議で、僕は海洋中に捨てられているゴミについて発表した。わずか10分の講演だったが、聞いていた人の顔はだんだん深刻になり、最後は絶望感に打ちひしがれた。丁寧に考えると、海洋汚染は、それくらい深刻なのだ。

この会議に出席していた、東京の環境パートナーシッププラザの女性から、僕はヨハネスブルグサミットに参加するNGOの連絡会に参加するように声をかけられたのだ。それを富山に帰って上司に見せたのだが、個人の資格で参加するようにと言われた。そこで始めのうちは、東京に用事のあるときに、時間が合えば会合に参加するという付き合い方をしていた。まさか自分が二回も南アフリカに行くことになるとは、思いもよらなかった。

設計作業と入札とシステム運用開始が予定よりも1年早くなったために、自分が一年間自由な時間を手に入れていたという認識はなかった。だけど、富山の職場を離れて、東京にいたり、南アフリカにいても、何も仕事の連絡が届かなかったし、やらなければならないことは何一つなかった。2002年度の一年間、僕が自由にふるまっても、誰も困らなかったことは確かだ。

このヨハネスブルグサミットにかかわることがなかったら、僕が人類学や言語学にかかわることもなかった。ここで述べた偶然は、神の計らいだったのだろうか。

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