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大谷哲夫編著『永平廣録 大全 』読書ノート(3)

日本達磨宗の入門後に興聖寺でおきたドラマ

 廣録巻1は、深草興聖寺での上堂語を集めたもので、126の上堂語が収録されている。時期としては嘉禎2年(1236)10月から、寛元元年(1243)越前下向まで。
 大谷先生のテキストをゆっくりと読んでいくと、道元の心を感じられる。

 実は、上堂語1の軽やかな七言絶句から始まって、道元の教えがダイナミックに展開されるものと期待していたら、意外な展開を迎える。上堂語110、111,112で、僧海首座と慧キ上座の二人の弟子が亡くなって、痛々しい追悼が行われているのだ。いったい何が起きたのだろうか。

 上堂語32が仁治2年(1241)正月。この上堂語の最後に道元は、「興聖、今日、利利(私は大いに儲けたよ)」と上機嫌で言っている。おそらく、日本達磨宗が宗派ごと弟子入りすることが決まったのだ。弟子が増えることで期 待に胸を膨らませていたから、このような言葉が出たのだと思う。

 おそらく上堂語33が歓迎の言葉。新しい弟子たちに、しっかり修行するよう語り掛けたのだ。
 ところが上堂語35では、魔王の話が登場し、弟子たちとのコミュニケーションがうまくいっていない気配を感じる。弟子入りしたばかりの弟子たちが、まじめに修行していないのだ。
 上堂語37では、弟子たちに向かって「さあ、答えてみよ。早く答えてみよ」と迫っている。上堂語38では、弟子の参学態度が良くないために道元がイライラしていることを感じる。上堂語40では、新しい達磨宗の弟子たちと、古くからいる弟子たちとの喧嘩か衝突を感じる。
 そして、上堂語41(これは卍山本では削除されている)に、「昔日(むかし)、世(よ)を避(さけ)し人」という表現があるのが、これは多武峰(とうのみね)を焼き討ちされて、越前に避難した日本達磨宗のことだ。多少考え方が違っていたとしても、ここにいる31人は、同じ山にいるのだから仲良くしてくれ、と訴えているのだ。
 ここから先の上堂語(73あたりまで)は、道元は弟子たちに、もっときちんと修行してくれ、修行しないのならここからいなくなってくれと語りかけている。それに対して、日本達磨宗の弟子たちは、徹底的に無言。しかたなく道元は、達磨宗の弟子たちのことも気にしながらも、自分の教えを説き始める。

 大きな変化があらわれるのは、上堂語105。中国から天童如浄の語録が道元のもとに送られてきたときだ。師の深淵な教え、厳しい指導を思いだして、道元は格調高い教えを垂れ(上堂語106-107)、指導態度を厳しくする。(上堂語108-109)
 その直後に、首座と上座の二人が命を落とす。(上堂語110-112)いったい何があったのか。それについては何の手がかりもない。二人が亡くなったから、追悼した事実だけがわかる。

 このドラマを頭に入れて、廣録上堂語を読んでみると、道元の心に近づけるのではないか。




  

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