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パブロフ博士の犬供養(3)

(3) もうひとつの謎 「負の相互誘導」


 パブロフは分化抑制の講義のあと、聴衆が謎に気づかなかったために、彼が答えに困る質問も出なかったことで面目が保たれて気をよくした。科学者としてやるべきことはやったと満足感にひたった。これがサムライの生き方かと、廣瀬の写真に語りかけた。
 そして、やはり理解不能な謎である「負の相互誘導」と名づけた実験を思い出した。これは「分化抑制」実験で得られた分化抑制刺激を条件刺激と組にして行う周期実験で、両方の刺激のあとで餌や塩酸を犬の口の中に入れるものだ。「条件刺激 (餌を与える)  ==> 分化抑制刺激(餌を与える)」というサイクルを繰り返すのだが、何度繰り返しても分化抑制刺激のあとでは涎が出ないのだ。
 分化抑制刺激だけを単独で用いると、何回か餌で強化すれば、抑制信号は興奮信号に変わり涎が出る。ところが、「組合せ刺激を正の条件刺激と規則的にくりかえした場合、破壊は非常に時間的におくれ、多くの回数、ときには数十回もくりかえしたのちはじまった。」(上・237頁)これをパブロフは「先行する興奮過程の影響で抑制過程が強まる」と説明するが、なぜそうなるのかを説明できなかった。
   パブロフは、「条件反射は大脳皮質の感覚野から運動野に新たにシナプス結合が生まれることによって形成される」と考えていた。いったん条件反射が形成されると、餌(無条件反射、強化)を伴わなくても、条件刺激が入力されれば感覚野の細胞は興奮するから涎は出るはずだ。
 ところが、条件刺激(メトロノーム100/分)を与えても続けて無条件刺激(餌)を与えないと、涎はだんだん減少して最後には出なくなる。「条件刺激が脳の感覚野に送り込まれると感覚野の神経細胞は興奮し、シナプス結合を通って運動野に信号が送られるはずだ。すると信号が興奮性から抑制性へと変化するから、涎は出なくなるのだろう」と考えた。
 「条件刺激==> 強化==>分化抑制刺激==>強化」(100を聞かせて餌を出し、96を聞かせて餌を出す)という周期実験も何度か繰り返せば、分化抑制刺激(96)のあとも涎が出るべきだ。なぜ条件刺激と組にすると、抑制信号は興奮信号に変わらない(涎が出ない)のか。さっぱり説明がつかなかった。
   とても物覚えのよい犬が、分化抑制刺激のあとに餌を出すと、飼育員をにらみつけて、諭すように、叱るように吠えた。「君、間違っているよ、この音の後で餌を出してはいけない」と言わんばかりに。当時パブロフは、犬が人間を叱るなんてあるはずないと一笑に付したが、今あらためてその可能性はあるのだろうかと考えた。
   なにはともあれ、この実験も講義で話すことにしよう。聴衆が悩んだり心配することがないように、「もっと直接的な証明となる実験を追試している。…..おそらくこの講義の終りごろには、これらの実験は完全に一定した結果を出している」(上、241頁)と言い添えよう。大切なことは、未解決の問題を未来に伝えることだ。パブロフは、胸のつかえが取れた気になり、さわやかな廣瀬武夫の笑顔を思いだした。

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