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「生も歓喜」そして「死も歓喜」

劇団四季『ラ・アルプ』2009年1月号所収

 若さには無上の美しさがある。けれど、私たちは「若さ」のみに過剰な価値を置く、哲学なき消費社会に踊らされてきたのではないかと思い知りつつある。

 いのちには生老病死という四季があるにもかかわらず、老いや病はあたかも価値のないものであるかのように見下げられ、なによりも死は「単なる生の終焉」「生を断絶する忌まわしい闇」として、久しく思念の外に遠ざけられてきた。

 もしも若いいのちにとって自身の行く先が侮蔑や嫌悪の対象でしかないのならば、なんという絶望的な人生を私たちは生きているのだろうか。そして事実、この国では自他の生と死を弄ぶような愚行が繰り返されている。

 ミュージカル『キャッツ』の原詩となった詩集「ポッサムおじさんの猫とつき合う法」を綴ったT・S・エリオットは、東洋の生命観に深く共鳴していたことで知られている。

始まりと呼ばれるものは、
しばしば終わりであり
終止符を打つということは、
新たな始まりである。
終着点は出発点なのである。
(四つの四重奏曲)

 『キャッツ』に登場する個性豊かな猫たちを見ていて、私は彼らがじつに生老病死という人生の四季をそれぞれ象徴しているのではないかと思い至った。

 若さの力と美に酔いしれ、老い、病み、死を迎えようとしている仲間を嫌悪し、怖れ、哀れむ猫たちのまなざしは、私たち自身のまなざしである。たとえ今は若く壮健であったとしても、一人の例外もなく自分もまた、老い、病み、死んでいくからこそ、そこに侮蔑と畏怖を覚えるのだ。

 しかし私たち人間よりも先に、猫たちは生と死の深い哲理に目覚めていく。「生」と「死」は分け離されるものではなく、あたかも地球の自転がもたらす昼と夜のように、ともに生命の全体が見せる二つの表情なのだ、と。

 人生を今世だけの偶然の産物と見れば、それはあまりにも儚い。今さえ楽しければいいという刹那的な思いに流されてもしまう。

 反対に、この宇宙の昼夜の運行のように生と死が連続していくとみる思想は、人生をまったく別の意味と色彩に染め上げていく。人生の四季のあらゆる風貌も、晴れの日も雨の日も風の日も、一切がかけがえのない瞬間となり、鍛えとなり滋養となっていく。友との出会いも、互いのいのちの深い約束であったと気づいていく。

 舞台の上で、その証明役をしていくのがグリザベラだ。娼婦だった彼女は、今は老醜に包まれている。一番辛酸をなめ、虐げられ、弱く醜い姿にあるそのグリザベラが、歌い踊る若い猫たちの前で、生と死を貫く荘厳な因果の法則を見せていくのである。

 理不尽に与えられたように見える不遇な宿命にさえ、顔を上げて懸命に生き抜いてきたグリザベラ。悔いのない〝善き生〟のメモリーのみが〝善き死〟へのメモリーとなる。

 グリザベラが歌う「メモリー」の歌詞。それは過去を懐かしむ哀歌ではなく、歩いてきた「生」への歓びの歌であり、訪れる荘厳な「死」と、その先の新しい「生」の夜明けを待つ喜びの歌である。

 最も不幸だった彼女のいのちが勝ってみせることは、すべてのいのちの勝利の可能性に通じていく。やがて続くクライマックスの肌が粟立つような猫たちの大合唱は、いわば、〝生も歓喜、死も歓喜〟という深遠な哲学に目覚めた、彼ら彼女らの凱歌の咆哮なのだ。

 ミュージカル『キャッツ』が二十五年ものあいだ日本人を魅了し続けているのは、単にエンターテインメントとして上質だったからだけではあるまい。この歳月、私たちの国は栄華の絶頂さえ味わいながら、一方で「生と死」に迷い続け、その答を模索してきた。

 『キャッツ』は、猫という鏡にわが身を映す、一夜の寓話を装った、とてつもなく深い宗教劇なのである。


劇団四季ミュージカル『キャッツ』

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