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消えた体温計、大嫌いだった祖母

買ったばかりの体温計が突如として消えた。前触れもなく、本当に、
本当に突然無くなった。

一人暮らしをする際に実家から勝手にかっぱらってきたは良いが、計測に呆れるほど時間をかける癖に蚊の鳴くようなか細い声しかあげないオンボロ体温計に愛想を尽かし、有り金をはたいて買った、白く滑らかに輝く2000円の高級体温計だった。

私は昔から物をよく無くすが、それは古くて広くて汚くてアホみたいにモノに溢れた実家の話であって、寂寞たる一人暮らしの我が家で無くすのはもう限りなく才能に近い。
目につく隙間、引き出しという引き出し、穴という穴を徹底的に探したが、おニューの高級体温計は見つかることはなかった。

「我ながら惚れ惚れとするね」

思わず自画自賛の感嘆が漏れてしまうほどに。


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運が悪いことに、無くなったことに気が付いたのは、「食べるラー油」ならぬ「打てる地獄」と周囲から大評判の、某社ワクチン2回目接種後の夜であった。
(ちなみに言っておくが私は決して反ワクチン論者では無いので悪しからず。)

母の遺伝を色濃く受け継ぐ私は、母が2回目ワクチン接種後高熱で大層苦しんだという話を受けて、恐らく自分も同様に苦しむことになるだろうと事前に予測していた。そのため、体調の変化に素早く気付くためにも体温計は必須だったのだ。

また、ただ体温を計測するのみならず、高スコアを叩き出した体温計をパシャリと撮影し、インスタのストーリーにでもアップすれば、たちまち友人の憂心を誘うことも可能、上司への欠勤願メールにちょこんと添付させれば体調不良の大義名分が手に入る、こんなに便利なアイテムがないのはかなり心許ない。

「ああ、こんなことなら古い体温計も取っておけば良かったな。」そんな言葉が頭をよぎったが、一度愛想を尽かした癖に今更古い体温計を想うなんて、都合の良すぎる話である。もとより声の小さいオンボロ体温計だったが、おそらくもう拗ねて口も聞いてくれないだろう。


徐々に悪寒に蝕まれていく身体を、狭いシングルベッドに横たえながら、いまは亡き新品高級体温計に想いを馳せ、目を閉じた。


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背中からじっとりと嫌な汗が滲み出てくるのがわかる。
電気を消して真っ暗闇の部屋の中、気味が悪いほどに静かな空気の中で、
自分の吐息がだんだん荒く、苦しくなっていくのが自分でも伝わる。

身体はもう限界というほど熱いのに、重ねた布団から出た肩は凍えるように寒い。
堪らず布団をすっぽりと被るが、依然として身体は熱を発しているので、もうどうしたら良いのかやりようがない。
脳みそがゴチャゴチャとして、被った布団も鉛のように重くなってきて、こめかみの辺りがカーーーッとしてなんだかイライラする。

発熱だ。それもとびきりのやつ。
なんともまあ分かりやすいのだろう。

深夜0時、ワクチン接種後12時間経過。体感で39度はゆうに超えていたと思うが、今となっては真実を知る術もない。


寝てやり過ごそうと目を閉じるが、黒くて大きな球体がいくつも自分に迫ってくる幻覚が見えて気持ちが悪い。

自分の荒い呼吸だけが響く暗い部屋の中、孤独感やら怒りやら倦怠感やらなんやらで情緒が変になってきたところで、何故か突然、大っ嫌いだった祖母が脳裏に浮かんだ。

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祖母はもう随分前に大往生で亡くなった。

重度の認知症だった彼女の最期はもう凄惨たるもので、懸命に介護をする母を泥棒呼ばわりして暴力を振るい、孫の私の顔は完全に忘れ、私が丁寧に「あんたの孫のゆうですよ」と自己紹介しても「私の孫は生まれたばかりなのでお前がゆうちゃんな訳がない、お前は誰だ」と言われる始末である。
そのくせ、自分の最愛の息子である父はうっすら覚えているらしく、父の前ではすっかりしおらしくなるのがまた憎たらしい。

認知症になる前も、孫のお菓子を平気で食べては「自分じゃない」としらばっくれるわ、嫁はいびるわ、親戚の悪口を平気で孫の前で喋るわ、とんでもない性悪ババアであった。
極め付けは無駄モノ買いで、家にもういくつもあるのに鍋やら菓子やらハサミやらを買い込んでしまう。そのため、実家はモノに溢れてしまっていた。支払いもできないのに買い物をし、販売会社に裁判を起こされたこともあった。

そんな大っ嫌いな祖母と、使える体温計があるにも関わらず、新しく買ってしまった今の自分が重なり、ハッとした。
結局、私は大嫌いな祖母と同じ、無駄モノ買い人間であったのだ。
同族嫌悪とはよく言ったものである。


そんなことを、熱で朦朧とする頭の中で考えていたら、何故か祖母から受け継いでしまった「無駄モノ買い」の遺伝子を愛おしく思っている自分に気が付いた。

普段であったら、「あの性悪ババアと血が繋がってるなんて」と絶望の一つや二つしそうなものであるが、一人で体調を崩している今、性悪ババアとの血の繋がりでさえ暖かく、何故か祖母に守られているとすら感じてしまう。
そもそも、私は祖母のことが本当は好きだったのかも、なんて思いながら、唐突な眠気に誘われ目を閉じた。


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カーテンに差し込む朝日で目を覚ますと、体調は昨夜よりだいぶ良くなっていた。熱も引いたようである。


依然として体温計はない。

軽くなった身体を起こし、今度は失くしてもショックにならない程度に安い体温計を買おうと思った。


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