観測範囲
Twitterでもそうなんだけれど、自分の観測範囲外の他者というものが苦手だ。
大抵の人間は観測範囲の外だというのに致命的な話だが、昔からそうなのでどうにも致し方ない。Twitterで例えるとわかりやすいが、フォロイーでもフォロワーでもない誰かからツイートに反応をもらうと、嬉しい以前に「誰?こわ……」と思ってしまう。だから私のアカウントはほとんどが鍵垢だ。気が楽でいい。
そのくせnoteでは公開日記を書き始めているんだから不思議なものだ。昨日頂いた反応にも案の定ビビり散らかしているが、そのうち慣れるだろう。たぶん。恐らく。きっと。
少しテイストの違う話をする。
井の中の蛙大海を知らず、という言葉がある通り、我々の観測範囲よりも圧倒的に世界は広い。インターネットも同じく広い。私がこうしてのんべんだらりとnoteをしたためている間も、どこかでは誰かが熾烈極まりないレスバを繰り広げている。
Aというコンテンツがあったとしよう。それをBという大きめのコンテンツが取り上げて、ある程度話題になったとする。
Aを元から知っている人はさておくとして、Bを通じてAを知った人は、「Bのお陰でAが有名になった」と考えるかもしれない。
例えが若干回りくどかっただろうか。要は、自分の見えている世界だけがすべてだと思うなということだ。世界は思っているよりも広く、我々の視界は思っているよりも狭い。興味関心によって取り入れる情報の取捨選択を行うから、私たちには案外なにも見えていない。
先程の例えで表現するなら、「Bを通じてAを知る」ことは何も悪くない。あたかも世界全体がAに気付いていなかったかのように、他の人間までもがBを通してAという存在を知ったかのように語るのが間違っている。
まあ、お察しかもしれないが、こういう話をするってことはそういうことだ。似たようなことでしょっぱい思いをした経験がある。結構昔だけど。
インターネットが長いとままある話だよね。仕方ないね。
お口直しに最近始めたエロゲの話でもしようか。
『Swan Song』という2005年のゲーム。かなり昔のゲームだが、ストーリーが良い。そもそも「考えさせられる鬱ゲー」という評判を見て買ったのだが、エロゲというよりは小説らしい文体とテキスト量で、好みはそれなりに分かれそうだ。
決まった主人公が存在しないようで、語り手のキャラクターがちょこちょこ変わる。そのうちの一人が、モノローグでこのようなことを言っていた。
「人はみんな、自分の玉川上水を探している」
うろ覚えで申し訳ないが概ねこんな感じだった。自分を太宰治に喩えている。正直言うと、己を太宰や太宰作品になぞらえるタイプの人間は嫌い寄りの苦手な部類なのだが、この一文は素直に良いと思った。死に場所を探す人間をこんな風に喩えるのか、と驚いた。
まだ途中までしか進めていないけれど、続きが楽しみだ。あのキャラクターの玉川上水はどこなのだろう。共に逝く誰かは居るのだろうか。気になって仕方がない。
日記らしいこと全然書いてないなあ。私は日記を書くのが下手なのかもしれない。それかまだ肩肘を張っているのかも。今ベッドの中でこれを書いているけど、確かに肩にちょっと力が入っていて、それが凝りを誘発したらしく少し痛い。
思い立った時に書くのが一番だと思ったから、一日も空けずに書いてしまった。これ続かないやつじゃないのか、細く長くやっていくのが一番じゃあないのか?
頑張れ私。明日も明後日もなんか書け。三行でいい。2chにあったな〜、長いから三行でまとめさせる文化。今もあるのかな。あれの字面、概ねサザエさんの次回予告だよな。それっぽくまとめるか。うろ覚えだけど。
今回の日記は〜!
・観測範囲外の他者が怖い
・世界は広い
・エロゲが面白い
の三本立てでした!
ジャンケンポン(チョキ)!うふふふふ〜!
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