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キングクリムゾン

 昨日の続きではない。
 ただジョジョの話はしている。短い。

 過程をすっとばして結果だけを得たい、と思ったことのある人は多いだろう。私もそうだ。結果を得たいから努力をするのだけれど、その努力が面倒になることはままある。とはいえ、実際に「過程を飛ばす」ことが叶ったとして、それで現れた結果は果たして「自分の得たもの」になるのだろうか?
 たとえば日記を書く過程をスキップして、書き上がった日記を目の前にした時。当然スキップしているのだから、書いた記憶は無い。けれど、文体も思考も何もかも自分のもので、恐らく自分が書いたものだろうということはわかる。でも書いた記憶は無い。それって本当に自分が書いたと言っていいのだろうか?

 ジョジョのスタンドで何が欲しいか、という話になるとかなりの確率で「キンクリ」と答えていたのだけれど、こう考えると別にいらない気もしてくる。そうなると何が欲しいだろう。……ペイズリー・パークかなあ。便利だし。

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