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海の静けさと幸ある航海 前編

※ 本作は、may_citrusの「澪標」と「東雲の幻」、さくらゆきさんの「ただよふ」、 「新しい航海」に続く話です。

  冬の日本海での別れから、約30年を経て結ばれた鈴木澪すずきみお海宝航かいほうこうのささやかな結婚式、お披楽喜ひらき後の会話をつづる短編(前中後編と続きます)になります。

 本作だけでも楽しんでいただけるように書きましたが、事前に以下の2作を読んでいただければ、より楽しめると思います。


登場人物

海宝かいほう(旧姓 鈴木) みお(60): 主人公 

海宝 こう(71): 澪の夫 前妻 実咲みさきが亡くなった後、澪と再婚

志津 芳実しづ よしみ(71): 航の同僚で大学時代からの親友 

竹内 翔真たけうち しょうま(60): 澪の会社同期 

吉井よしい(旧姓 水沢) 彩子さいこ(60): 澪の会社同期  

吉井 とおる(73): 彩子の夫 

海宝 千洋ちひろ(67): 航の弟  

海宝 航平こうへい(46): 航の一人息子 

海宝 美生みき(46): 航平の妻  

海宝 航生こうせい(11): 航平と美生の長男

海宝 彼方かなた(8): 航平と美生の次男   


               
 空は限りなく高く青い。雲の流れが、部屋に射しこむ陽の量を変化させる。金木犀の芳香が潮風の混じる秋風に運ばれ、鼻腔をくすぐっていく。乾燥した北関東での生活が長かった私は、潮風に心が浮きたつ。 

 還暦を迎えた私、 海宝澪かいほうみおは、日本髪を結い、色打掛に身を包んで席についている。夫のこうさんは、紋付袴姿で背筋を伸ばして座っている。航さんの美しい所作は、脳梗塞で倒れてからも、それほど失われていない。今日のために染めた髪をオールバックにし、寂しくなった頭頂部を隠したので、71歳とは思えない若々しさが醸し出されている。

 私たちは、航さんの亡き祖父母の遺した新潟市の土地に新居を建てた。その完成を機に、いままで住んでいた栃木県小山市から移住した。新生活を始める前に、航さんの息子  航平こうへいさん夫婦の勧めで、新居で結婚式を挙げることにした。この年齢で花嫁衣裳は気が進まなかったが、縁のある人に受け入れてもらう機会になればと決心した。

 30年近く前に別れた私たちが、この日を迎えるまでには、長い年月が必要だった。それを物語るかのように、2人の顔には皺やしみ、たるみが目立つ。細長いテーブルを囲む中高年たちの顔にも、それぞれに流れた時間が色濃く刻まれている。

 私たちの着付けとヘアメイクは、航平さんの奥さんの 美生みきさんが担当してくれた。大手化粧品メーカーの美容部員だった彼女は、結婚後に美容師資格を取得し、今ではヘアから着付け、化粧まで手掛けるサロンを経営している。彼女の隙のない身なりと、手入れの行き届いた肌は私を気後れさせるが、飾り気のない親しみやすさがそれを中和してくれる。彼女の高い技術で、手入れを怠ってきた私の顔は、どうにか見られるレベルに仕上がった。

 テーブルに並ぶ料理は、航さんの弟で、客船のシェフをしていた千洋ちひろさんが腕をふるってくれた。私の親友で会社の同期だった彩子さいこと夫のとおるさんが、千洋さんのアシスタントを務めてくれた。彩子夫妻は、隣県で生演奏が自慢のカフェを営んでいるだけあり、千洋さんの指示に迅速に応えてくれた。年配者に配慮した優しい味付けの料理、ここ新潟の海の幸を生かしたお鮨やお刺身はどれも絶品だ。花嫁の私は、小鳥がついばむようにしかいただけないのが残念だ。

 バックミュージックには、透さんのピアノ演奏の録音が静かに流れている。ITベンチャーの取締役を務める彩子は、荒海をイメージするプロジェクションマッピングを作り、オープニングで映してくれた。乾杯のときには、小山の高齢者施設にいる私の両親と、横須賀の介護施設にいる航さんのお母さんが晴れ姿を見られるようにZoomでつないでくれた。

 航平さんの司会で乾杯やスピーチが済み、アルコールもほどよく回り、話に花が咲いている。秋風がカーテンを揺らし、航さんと私がまとう香水「エルバヴェール」がほのかに漂う。

 礼服姿の航平さんは、長男の 航生こうせいくん(11歳)と、隣室で彩子が作ったプロジェクションマッピングを映して楽しんでいる。航平さんは、私と出会った頃の航さんと同じくらいの年でまさに男盛りだ。彼のふとした仕草に昔の航さんの面影がちらつき、何度もどきりとさせられた。
 私の会社同期で、今も同じ会社にいる竹内くんは、航平さんの次男彼方かなたくん(8歳)と飛行機の話で盛り上がっている。彼方くんは、総合商社勤務で海外出張の多い航平さんの影響から、飛行機で世界中を飛び回ることに憧れているらしい。
 躾けの行き届いた2人は、お客様に見せるような礼儀正しさで、私に接してくれる。両親から、新しいおばあちゃんができると説明されたらしいが、どこまで理解しているだろうか……。

航生こうせいくんのお名前、お父さんとお母さんから一文字づつ取ったのですか?」
 彩子に尋ねられた美生さんは、美しく化粧した顔をほころばせる。
「当たりです! 航平の航と美生の生を合わせました。彼方かなたのときは、私がつけたんですよ」
「彼方くんって、格好いいお名前ですね。どんな意味が?」
「航生のときもそうだったんですが、私も主人も、息子には世界中を航海するくらい、様々なことを見聞してほしいと思って名付けました。彼方にも、海の彼方まで航海するくらい、たくさんのことを経験してほしいという願いを込めてつけました」
「素敵ですね。そういえば、お祖父さんが航さんで、お父さんが航平さん、そして航生くんと、航の字が3代引き継がれているんですね」
「そうなんですよ! 航生にも彼方にも、人生の荒波に負けずに、どこまでも航海してほしいです」
 子供たちに優しい眼差しを注ぐ美生さんの黒ワンピースは、よく見ると生地が上質で、腰回りをすっきりと見せる凝ったデザインだ。控えめな服装でも、彼女のセンスの良さが感じられる。

 航さんは、商船の航海士だった亡きお父様から、人生は航海だと言われて育った。彼が航平さんにその精神を伝えていたことが窺え、胸が温かくなる。そして、私と航さんも、新しい航海に乗り出したばかりだ。
 

 航さんの横に置かれた椅子に、礼服姿の志津しづ課長がどっかりと座った。恰幅のいい彼が腰を下ろしたせいで、椅子がみしっと悲鳴を上げる。彼は航さんにとってはかつての同僚で大学時代からの親友、私にとっては頼りがいのある上司だった。私のなかでは「志津課長」のまま記憶が止まっているので、退職前に就いていた「部長」はどうにも馴染まない。

 すっかりできあがった志津課長の大きな顔は、赤みを帯びている。
「航、鈴木、電話で聞いたときは、鼻血が出るほど、びっくらこいたけど、めでたい、めでたい! 2人とも飲めや。おっと、もう鈴木じゃなかったな。2人とも海宝かいほうだ」
 志津課長はしわの寄った手で、私たちのグラスになみなみとビールを注ぐ。手元がおぼつかないせいで、グラスから泡があふれ出し、航さんが慌ててすする。私は血圧が気になり、数年前からお酒を控えているので、形だけ口をつける。

 志津課長のふわふわだった癖毛は、ほとんどなくなり、好々爺善とした風貌だ。だが、豪放磊落ごうほうらいらくで、嫌味のない親しみやすさはあの頃のままだ。
「はい、みなさん、グラスを上げて~!! 海宝航と澪に乾杯だ~!」志津課長は、立ち上がってビール瓶を高々とかかげた。
「よせよ、志津。もう乾杯は終わっただろ」航さんが苦笑いして座らせる。
「糖尿病なんだから、ほどほどにしとけよ」
「航だって脳梗塞やったんだから、人のこと言えないだろ。また、倒れたら、新婚生活が台無しじゃないか」
「わかってるよ」航さんは、笑い皺が目立つ木漏れ日のような笑みを私に向ける。
 私はそれに魅了されながらも、心の端が引きつるような感覚に襲われる。私の知る40代の航さんには、確固とした意志を持って生きてきた芯の強さがあった。だが、そこには、苦悩と切迫感がにじみ、今にも壊れてしまいそうだった。今のやわらかい表情は、私ではない人と連れ添った年月で身に付いたものだろう。記憶のなかで温めてきた彼が、すっかりおじいさんになって傍にいる現実に未だに慣れない。その違和感は、ときどき私を不安定にする。

 もう30年程前。30歳の私と41歳の航さんは、出会った瞬間、恋に落ちた。航さんには、15歳年上の双極性障害を抱えた奥様と中学生の航平さんがいた。責任感の強い航さんが、何があっても家庭を守り続けることは、最初からわかっていた。そして私は、そんな筋の通った生き方をする彼だからこそ魅かれていることに、早々に気づいてしまった。

 私たちは上司と部下の関係を維持しようと努めた。だが、めぐり逢ってしまった2人は、N極とS極が引かれあうように距離を縮めた。そんな私たちは、冬の日本海の海岸で、航平さんが大学に入ったら一緒になろうと誓うところまでたどり着いた。

「なあ、おまえたち、会社にいる頃からそういう関係だったのか? まあ、その、2人は驚くほど気が合ってて、いいチームだったしな」
 志津課長は声を落としたつもりなのだろう。だが、元々声が野太い上に、酔いが回っているせいで、さほど効果はない。

 彼からこうした質問が出ることは、私も航さんも想定していた。

「お~い、竹内と水沢、じゃなかった今は吉井だな」
 志津課長が、私の同期だった竹内くんと彩子を近くに呼び寄せる。
「おまえたち、2人のこと知ってたのか?」課長が2人のために椅子を引き寄せながら尋ねる。
「ええ、まあ……」
 2人は顔を見合わせ、ためらいがちに頷く。
「何だよ、知らなかったのは俺だけかよ」
「志津部長、大らかすぎるんですよ。まあ、そこがいいところですよね」 スーツ姿の竹内くんが注がれたビールを豪快に飲み干す。彼の頭頂部は寂しくなり、額の皺や目元のたるみが目立つ。だが、元々スポーツマンで、今でもジム通いを続けているだけあり、筋肉質の体型は健在だ。
「もう、とっくに定年退職したんだから、役職はつけるな。俺は芳実よしみ、海宝は航と呼べ」
「志津課長じゃなかった部長、可愛いお名前だったんですね」
 細身の黒ワンピースに身を包んだ彩子が、意外だと言わんばかりに眼鏡の奥の目を丸くする。彩子の目の動きと連動するように、目元の皺が浮きだす。彩子も年を取ったなと思うが、仕事と店の手伝いに奔走する彼女は、老いをはね返す活力に満ちている。
「だから、部長はやめろって言ったろ! みなさん、これからは、俺と航に役職をつけないでくださいね~!!」
 彼が立ち上がり、熊が吠えるように叫んだので、私は「志津さん」と呼ぶことに決めた。
「僕も航でいいですよ」航さんも立ち上がり、皆に周知した。
 

 私は、酔った志津さんに深掘りされる前に言っておこうと決めた。

「さっきのお話しですが、私、あの頃、航さんがご家族を守り続けることは最初からわかっていたんです。私を思えば、同じだけご家族への思いも深めていくことも。だから、航さんがしんどいとき、私と会って充電して、ご家族のもとに帰ってくれれば充分でした。私がそんな存在になれるなら、それ以上の幸せはありませんでした」

 どんなに高尚な言葉で繕っても、奥様のいる男性と交際していた事実は変わらない。それでも、無意識に、あの関係を正当化しようとしてしまう私は卑怯だ。
 奥様が亡くなった翌年に再会し、ようやく結ばれた幸せに浸りたいと思いながらも、心の隅が引きつれるような感覚から自由になれない。

「僕が澪さんの好意に甘えていたんだ。亡くなった妻は双極性障害を患っていた。気分が不安定なことが多くて、支えるのに疲れるときがあった。そんなとき、彼女の愛情と優しさに癒されていた」

「何であのころ話してくれなかったんだよ、何度も飲みに行ったのに、水くさいじゃないか!」志津さんは、興奮したいのししのように詰め寄った。

「すまない。志津に心配をかけたくなかったんだ。きみは、暑苦しいほど他人に共感して、悩んでしまうところがあるだろう」

「何だよ、その言い方! おまえは気を遣いすぎなんだよっ!」
 志津さんは吐き捨てるように言葉を切ると、声を落として尋ねる。
「それで、その、おまえたち、この数十年、ずっとそういう……」

「それは、絶対に違います!!」
「そうじゃないよ、志津!」
 私と航さんは、ほぼ同時に否定した。

「航さんは2年ほど経ったとき、きっぱりと私に別れを告げました。その後、ご存じのように私は本社から北関東事業所に異動して、それから2年後に退職しました。以来、昨年まで、航さんに会うことは一度もありませんでした!」

 志津さんは私の剣幕に圧倒されたように頷いてから続ける。
「あのとき、きみが急に北関東に移った本当の理由は、それか。確か、親が心配だから、実家に近いところに移りたいと言ってたな。あの頃は、コロナでテレワークが多くて、ゆっくり話せる機会がなかったからなぁ。て、言っても、気づかない俺が鈍かったのか……」

 志津さんは腕組みをして、天を仰ぐ。 

 私の異動前、新型コロナウイルス感染防止対策でテレワークになっていて、送別会もできなかった。まだ髪がふさふさだった志津さんは、「寂しくなるな、親を大切にしてやれよ」と湿っぽい声で送り出してくれた。彼の鈍いほどの大らかさが嬉しかった。

「最初は、会社を辞めるつもりだったんです。でも、コロナ不況で、転職先が見つからなくて……。そんなとき、北関東事業所にいた彩子が転職すると聞いて、チャンスと思って異動希望を出しました。異動後は、本社に出張がある業務から外していただきました」

「そうだったのか。きみが寿退社すると聞いたときも驚いたな……。たしか、辞める前に、本社に挨拶に来てくれたらしいな。俺と航は出張で会えなかったけど」

 私は、航さんが出張の日を狙って本社に行ったことには触れずに続けた。
「ええ、でも、結婚生活は長く続きませんでした。嫁ぎ先から、どうにもならない理由で離婚を切り出されてしまって……。それから、一人で生きていこうと決めて、看護師になりました。ついこのあいだまで、外科病棟の看護師長だったんですよ」

「すごいじゃないか。いろいろ苦労したんだろうな……。60なんて、まだまだ若いんだから、これから幸せになれよ」志津さんが体温の高い手で私の肩を叩く。
「年のことは言わないでくださいよ! それに、私は今まで不幸だったわけじゃありませんから」 
 数か月前まで、病棟を走り回っていた私は、激務のせいもあり、中年太りを免れた。だが、同世代の女性を目にするたびに肌のケア、健康診断の結果を見るたびに身体のケアを怠ってきたと痛感させられる。それでも、私は仕事に生きがいを感じ、シングルならではの楽しみも堪能でき、それほど悪くなかったと思っている。


                  ★
 コックコート姿の千洋さんと、スーツにエプロンをかけた透さんが空いたお皿を下げ、魚介類のフライ、子供たちが喜びそうなフライドポテトやシーフードサラダを運んできた。歓談は一時中断され、温かい料理を皿に取り、咀嚼そしゃくする音に取ってかわられる。

 彼方くんは、山盛りのフライドポテトに、トマトケチャップをかけて美味しそうに頬張っている。魚介類が好物の航生くんは、あつあつのエビフライにかぶりつく。
 IT技術の導入で子供の娯楽は私たちの時代と随分変わった。だが、美味しいものを食べるときの幸せそうな表情は変わっていないだろう。2人は航さんの幼い頃に似ているのかと想像すると、口角が上がっていく。

「あの……」
 竹内くんは箸を置き、私をちらりと見てから航さんに視線を移した。
「失礼ですが、あのときどうして2人は別れたんですか? 海宝部長、じゃなかった航さんは、息子さんが大学に入ったら彼女と一緒になるつもりだったんですよね?」

「竹内くん!」私は彼をきっと睨んだ。

 彼は怯むことなく続ける。
「あのとき鈴木さん、じゃなかった澪さんは、どちらかがコロナに感染したら、保健所による濃厚接触者の特定で、会社や家族に関係がばれるかもしれないから会うのを自粛することにしたけど、コロナがなかなか収まらないから別れを告げられたと言ってました。でも、航さんほど誠実な方が、病気の奥様ではなく、彼女を選ぶ覚悟を決めていたなら、そういう理由で別れを選ぶとは思えませんでした」

「そんな昔のこと、蒸し返さなくてもいいじゃない!」
 竹内くんと彩子に関係を知られたことは、航さんに黙っていた。その上、別れた理由を2人に説明するためにでっちあげた話まで聞かれる気まずさに身が縮む。

 不穏な空気を察したのか、航平さんと美生さん、キッチンにいる千洋さんと透さんまでが、こちらを気にしている。

「すみません。でも、航さんらしくない理由だと思っていました」

 状況を飲み込んだらしい航さんは、ナプキンで口元を丁寧に拭ってから、静かに切り出す。 
「いいですよ、もう昔の話ですから。実は、澪さんと一緒になると決めた頃、妻は双極性障害が寛解していて、病気に振り回された年月を取り戻すかのように、奔放に行動していました。そのことで、夫婦関係は修復不可能なほど悪化していたんです。でも、コロナが流行して、社内に感染者が出て、僕が濃厚接触の可能性で自主隔離をしていたころ、感染を恐れた妻の病状が手に負えないほど悪化してしまったんです。強迫性障害を併発し、ウイルス恐怖と洗浄強迫に悩まされ、命の危険さえありました。僕は、そんな妻を見捨てることができませんでした……」
 
 航さんは、奥様が火遊びをしていたことを「奔放に行動」という言葉に収めた。その心遣いに胸を打たれつつも、胸の奥がかすかに熱を帯びてくる。 あのころ抱いていた奥様への嫉妬は、時の流れに希釈されていた。だが、別れを告げられたときの切なさがよみがえると、胸の奥底の燃えかすが、ちりちりと頭をもたげてくる。
 私は、家族を大切にする航さんを愛していたのに、自分が選ばれなかったことが悲しく、矛盾する感情に身を引き裂かれたこともあった。

「そういう理由でしたか……。納得です。コロナが二人の運命を変えてしまったんですね」

 私は即座に言い添える。
「航さんは、何が正しいかを見極め、それを選べる強さを持つ人です。正直、お別れしたときは、心が壊れそうでした。でも、彼があのとき私を選んでいたら、遅かれ早かれ駄目になっていたと思います。私が好きになったのは正しい航路を毅然として進む航さんです。後ろめたさを抱え、生きる屍になった航さんを見るのは耐えられなかったと思います」

「確かに航らしいな。おまえたち……、悲しいほど互いを理解していたんだなぁ。だけど、もっと自由というか、思うがままに生きられなかったのかと腹が立つよ……! まあ、それが、おまえたちらしいのだろうけど」
 志津さんは、苛立ちと肯定をないまぜにした表情を浮かべて続けた。
「おまえたちのような種類の人間がいるから、社会が崩壊しないのだろうな……。俺はそういうおまえたちが好きだよ」

 だが、彼はふと思いついたように言い継ぐ。
「立ち入ったことを聞いて悪いけど、さっき航は、奥さんとの関係が修復不可能なほど悪化してたと言ったな。よく、最後まで添い遂げたな。いかにも航らしいけど、いろいろしんどかったんじゃないか?」

 志津さんの口調に、下衆げすな響きは微塵も感じられず、親友を慮る温かさがにじんでいた。
 それでも、彼の質問は私の全身を強張らせる。航さんが、そんなことはなかったと答えれば、私の胸はじわじわと蝕まれる。だが、しんどかったと答えれば、私との関係が、ご家族との向き合い方に落とした影に罪悪感を覚えるだろう。            

 航さんは気分を害した様子を見せず、私に顔を向けて続ける。
「直接の答えになるかわからないけど、僕は澪さんに恥ずかしくないようにという思いに支えられて家族を守れた。彼女との別れは、僕の人生の澪標みおつくしだったんだ」
「澪標?」志津さんと同期2人が腑に落ちない顔をした。

「僕からお話ししましょう」
 話の流れを窺っていた息子の航平さんが、私たちの隣に椅子を持ってきた。

「一昨年、母が84歳で他界しました。父は役目を終えたかのように気力が衰えていきました。さすがに、一人にしておくのが心配になり、一時的に僕の家に迎えました。父が脳梗塞で倒れる少し前、僕に澪さんとのことを話してくれたんです。母はもちろん、僕も全く知らなかったので本当に驚きました。高潔な父のイメージを覆す告白に、初めは憤りと軽蔑しかありませんでした。でも、話を聞き終え、その思いは消えていきました」
 いつの間にか、千洋さんも近くにきて、航平さんの話に耳を傾けていた。
「父は澪さんと別れるとき、この先にある海岸で、彼女にこのような趣旨のことを言ったそうです。深さが十分にあり、船が航行できる通路をみお、澪を航行する船が座礁しないように、水深などを知らせる標識を澪標みおつくしというと。父にとって、愛する澪さんとの別れが人生の澪標だと。父は運命の人だと確信した澪さんと別れてまで、もとの航路、つまり家族のもとに戻ることを選んだ。だからこそ、これから何があっても、その航路から外れてはならないと心に決めたそうです……。そのとき決意した通り、父は僕や母と真摯に向き合い、海宝家の大黒柱でいてくれました」

 航平さんの声は、あのときの航さんの声と酷似していて、胸を切り裂くような悲しみが高潮のようによみがえってくる。
「私は、『それでこそ、私が愛したあなたです』と答えました。悲しみで身がちぎれそうでしたが、これでよかったという思いが心の底にありました。航さんには、正しいと信じた航路を誇り高く航行してほしかった……。それが、航さんらしい生き方だから」

 航さんが受け継いだ。
「長い人生の航海のなかで、僕は航路を外れたい衝動に駆られたこともありました。でも……、澪さんに軽蔑されない生き方をしなければと気持ちを奮い立たせてきました。家族を守り、妻に最後まで寄り添えたのは、そのおかげです」

 航平さんは、席を立ち、棚の上に置いてあったエルヴァベールの瓶を持ってきた。
「これは澪さんが使っていたロクシタンのエルバヴェールという香水です。香りはハーバルグリーンシトラスです。父は澪さんが本社を離れてから、ずっとこれを使い続けています。この香りをまとうことで、彼女に見守られている気がしたのでしょう。たとえ、一生会えないとしても……」

 航平さんは、ハーブティーを一口飲んでから、静かに言い継ぐ。
「海宝家が崩壊しなかったのは澪さんのおかげだと思います。澪さんは海宝家にとっても大切な人です。だから、僕は2人の再婚に賛成しました」

 彩子が静かに話し出す。
「私、澪さんと航さんが別れた後、上野駅で航さんと偶然会ったんです。そのとき、航さんから澪さんと同じ香水の匂いがしたんです。航さんに香水のことを尋ねたら、『僕の澪標です。死ぬまで使い続けます』と言っていました。今のお話で、その言葉の意味がわかりました……」
 
「あのとき、彩子がそのことを私に教えてくれなかったら、ずっと知らなかった」
 私は胸がきゅっと締め付けられ、温かい感慨が胸に広がる感覚を思い出した。それをきっかけに、私は捨てようと思っていたエルバヴェールをお守りのようにバッグに入れて生きてきた。

 航さんの気持ちは嬉しかった。だが、私との思い出が、航さんが奥様と心を通わせる障壁になっていたのではという思いが、黒い影のように幸福感を飲み込んでいく。

「父の話を聞き、僕は澪さんがどうしているのか気になって、ネットで検索しました。小山の病院のHPで、外科病棟の看護師長をしている鈴木澪さんの写真を見つけました。勤務地、年格好などから、この方で間違いないと思いました。父が倒れた夜、僕は父を澪さんに会わせなければと思い、小山の病院に電話で問い合わせました。澪さんが夜勤だと知り、無我夢中で車を飛ばして病院に向かっていました」

「朝焼けを背に、航平さんが廊下の向こうから歩いてきたとき、航さんの幽霊かと思いました。本当にびっくりしました。あのとき、あなたが来てくれなかったら、航さんと私は一生会うことはなかったでしょうね……」

「航平は、若い頃の兄さんとそっくりだからな。澪さんが驚いたのも無理ないよ。航平のほうが背が高いけどな」
 千洋さんが2人を見比べ、いたずらっぽい笑みを見せる。
「わかります。私も、お義父さんの昔の写真と、今の航平さんがあまりにも似ているので驚きました」
 美生さんが激しく同意する。

 病室での再会を機に、二度と交わることはないと思っていた私と航さんの人生が再び交わった。私たちは、離れていた時を取り戻そうとするかのように、年甲斐もなく愛し合った。互いに年を取った現実は、私たちを一分一秒も無駄にしたくない思いに駆り立て、すぐに結婚を決めた。

 だからこそ、話し合うべきことは話し合い、2人の間の障壁は取り除きたい。だが、2人とも、幸せを壊すまいという思いから、口に出すのを避けていることがある。

 西日が私たちの顔に刻まれた皺や法令線を際立たせ始める。庭で野良猫と遊んでいる子供たちの顔にも、傾き始めた陽が注ぐ。航生くんは航平さん、彼方くんは美生さん似だなと思った。子供を持てなかった私は、かつては幸せそうな親子を見ると胸を締め付けられたが、いまでは穏やかな気持ちで見守ることができる。