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巡礼 2-(2)

 良が都に交際を申し込んだのは、夏休みに入ったばかりの7月だった。2人は滝のような汗を流しながら、神奈川近代文学館と大佛次郎記念館をまわり、港の見える丘公園のベンチで一休みした。都は大佛次郎の『帰郷』が好きで何度も読み返したこと、母方の祖母が、戦時中に新聞で連載されていた『鞍馬天狗』を楽しみにしていたことを話した。だが、この日の良はいつもと違った。都の話しを聞いてはいるものの、どこか上の空で、いつも真っ直ぐに都を見つめる視線が足元に落ちがちだった。都は暑さにやられたのかと思い、少し黙っていることにした。


 夕暮れの生暖かく湿った風が、背中の汗を乾かしていく。良は相変わらず考え事をしているかのように視線を落としていた。沈黙が重くなり始めた都が、飲み物を買ってこようかと立ち上がったとき、良がそれを制した。座り直した都は、彼が話し出すのを待ったが、彼は拳を握り締めたままだった。


 やがて、大きく息をついた彼は、体ごと都のほうを向き、彼女の目を見据えて言った。
「風岡さん、あなたが好きです。僕と付き合ってくれませんか?」
 何の飾り気もない言葉だったが、真摯な思いは都の胸にずしんと響いた。彼は耳まで真っ赤になり、唇の端がぴくぴく震えていた。
 都は鼻の奥がつんとしてきたのを堪え、彼の目をしっかり見返して答えた。
「私も松倉さんが好きです。恋人としてそばにいさせてください」
 都はそのとき吹いていた生暖かい風の匂い、風に鳴る木の葉の音を今でも覚えている。


 良は誠実を絵にかいたような男だった。都の誕生日に大きすぎるケーキを注文してしまい、運んでくる途中、転んで歪ませてしまった。付き合って半年目の記念日には、待ち合わせ場所に大きなバラの花束を持って現れて周囲の視線を集め、都に恥ずかしい思いをさせた。友人は、そんな良を「天然記念物」みたいだと笑うが、都は愛おしくてたまらなかった。彼が都を全力で大切にし、季節の行事や2人の記念日を忘れないでいてくれるのが嬉しかった。増えていくアルバムの写真と手帳のプリクラは、積み重なっていく幸せを形にしたようだった。

  根が真面目な2人は、講義も家庭教師のアルバイトも疎かにしなかったので、会えるのは週末だった。2人は話題のデートスポットよりも、公園や博物館の散策や互いのアパートでのんびり過ごすことを好んだ。文学や音楽という共通の趣味があることに加え、医学と教育学という全く別の分野を学んでいることで、話題は尽きなかった。
 

 都は初めて異性から愛される幸せに酔いしれた。母を亡くし、孤独で味気ない高校生活と家事に追われ、新しい家族との関係に振り回された都にとって、今の幸せは神が与えてくれたご褒美に思えた。良の存在は都を内面から輝かせ、表情から動作まで自信が溢れてきた。耳の底から聞こえていた孤独の音は、良と魂が響きあうようになったことで、いつしか聞こえなくなっていた。