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巡礼 1-(3)

 父が貴和子さんとの再婚話を切り出したのは6月末だった。都の顔には、怒りを通り越して、呆けたような表情が浮かんでいた。自分が受験勉強と家事に追われているときに、なぜ父は神経を逆なですることを言えるのか。この人は、どこかずれていると思わずにはいられなかった。難しい年頃の京輔も反対を貫き、頑として譲らなかった。


 父の提案は都が家事から解放されて、受験勉強に専念するのを望んでのことだった。再婚したら、貴和子さんが仕事を辞めて家事を担うという。冗談じゃないと叫びたかった。彼女が仕事を辞めれば、彼女の子供の学費も父が担うことになる。ただでさえ、楽ではない風岡家の家計がさらに圧迫されることは必然だった。

 都は自分が再婚の言い訳にされたことに憤り、家事を手伝ってもらうならお手伝いさんを雇うとか別の方法があるだろうと言い返した。だが、聞く耳を持たない父を前に、都はせめて自分の受験が終わるまで待って欲しいと懇願することに切り替えた。父が教育に投資を惜しまないと知っている都は、大学に入ったら1人暮らしをさせてもらい、再婚した家族と同居せずに済ませるつもりだった。

 一家の話し合いは果てしなく繰り返され、最後には父方の祖父母も同席した。祖母は都に、受験勉強と家事の両立に限界を感じているのは事実だろうと涙声で諭した。都の成績を生きがいにしてきた祖母は、定期試験の2週間前にやってきて家事を担い、勉強に専念させてくれたものだった。だが、体が思うようにいかなくなった祖母は、もはや都の意のままにはならなかった。抗えない流れの中で、都は再婚を認める条件として、都と京輔の部屋はそのまま使い続ける、都が大学に入ったら1人暮らしをさせてもらうことを父に承諾させた。


 貴和子さんの娘、あかねとの初対面は、日本橋のデパートに入っている中華料理店での食事会だった。貴和子さんは、我儘放題に育ててしまってと恐縮しながら茜を紹介した。茜は都より2歳年下だった。色白で痩せ型なのは母親似だが、顔立ちや持っている雰囲気は別系統だった。中学生にしては長身で、長くて形の良い脚を誇示するミニスカートを履いてきた。陶器のようなつるんとした肌に黒目の多い表情豊かな瞳、筋の通った鼻に艶っぽい唇、膨らみはじめた胸は男性の目をひきつけるに十分だった。華やかな顔立ちに浮かぶ表情には、どうしたら可愛らしく見えるかを計算した跡がうかがえた。都は直感的に苦手だと思い、同性から嫌われるタイプではないかと勘ぐった。

 茜は甘い声で「よろしくお願いしまぁす」と、首をかくんと右に傾げて微笑みかけた。都は「こちらこそ」とひきつった笑みを返す。血が繋がっていないとは言え、愛らしく華のある彼女と、平安美人顔の冴えない自分が姉妹になる。これから、幾度となく同じ写真に収まると思うと、水溜りに投げた小石が波紋を広げるように劣等感が広がった。茜は好き嫌いが多いのかダイエット中なのか、都が小皿に料理を取り分けて渡しても、それを皿の上で選り分け、つっつくように食べた。両親から好き嫌いのないように育てられた都は、それも気に入らなかった。都は京輔の視線が茜に釘付けになっているのが癪に障り、テーブルの下で脛を蹴飛ばしてやった。



 貴和子さんは荷物を運び込む前に、母の仏壇に手を合わせ、深々とお辞儀をした。都や京輔に、自分を「お母さん」と呼ぶことを求めず、最初は住み込みのお手伝いさんと思ってくれればいいとぎこちない笑顔を向けた。
 不器用な父は、貴和子さん親子と都に衝突が起きることを恐れ、両者のあいだで右往左往していた。だが、幸いそのたぐいのぶつかり合いはなかった。

 両者は2階建ての家で、うまくやっていたというよりも、うまく棲み分けていた。貴和子さんと茜は1階の和室を使い、都は2階の自室で過ごした。下に降りるのは食事と風呂、洗濯のときくらいで、2人とは挨拶程度の会話しかしなかった。避けていたのではなく、学校と受験勉強で精一杯の都には、新たな人間関係を築く余裕などなかったのだ。貴和子さんは、いつも目を釣り上げてせかせかしている都と無理に親しくなろうとせず、都が勉強に専念できるように配慮してくれた。そして、茜が都の負担にならないよう、必要以上に都に近づくことを控えさせた。亡くなった母に似て、すぐに他人と打ち解ける京輔は、2歳年上の茜と意気投合したようだった。貴和子さんに対しては、なかなか敬語が抜けなかったが、2人の会話そのものは増えていた。父は実子と継娘の扱いに苦心し、やむなく都や京輔を優先してしまうことがあった。とりわけ苦労をかけた都には頭が上がらず、何かあったときは都を優先してくれた。

 それでも都は、階下から家族の談笑する声が聞こえると、家庭に居場所をなくした孤独に胸を切り裂かれた。こんな生活も受験が終わるまでだと割り切り、卒業したら家を出る決意を新たにして机に向かった。