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巡礼  1-(4)

 1996年春、都は第2志望だった首都圏の国立大学に合格した。東京郊外の自宅から、電車とバスを乗り継いで片道2時間弱。通学できない距離ではないが、約束通り父は都の1人暮らしを許した。6畳の古いアパートだが、初めて自分の城を手に入れた都の夢は膨らんだ。家族に煩わされず、自分のために時間と空間を使えることが嬉しくてたまらなかった。

 必修科目の多い教育学部は、朝から晩まで講義が詰まっていたが、国語の教師になると決めていたので苦にならなかった。読書経験を分かち合いたくて門を叩いた文芸部では、時間を忘れて語り合える友人や先輩に出会えた。父の勧めで英会話スクールに通い始め、世代を超えた友人もできた。葉桜が目立ち始めた頃、都には新たな人生が動き出した躍動感が溢れていた。
 大学生活が軌道に乗り、心に余裕ができたおかげで、貴和子さんや茜との関係も少しずつ前進した。都はたまに実家を訪れ、家族と夕食をとった。父が都の部屋をそのままにしておいてくれたので、泊まっていくのも自由だった。貴和子さんとは気負わずに話せるようになり、帰り際には「父と京輔をよろしくお願いします」などと気の利いた言葉も出た。

 頭痛の種になったのは茜だった。貴和子さんによると、都が初対面で直感した通り、茜に男性の取り巻きはいるが、同性からは煙たがられているという。中学1年のとき、やっとできた親友に裏切られて以来、女友達をつくることを諦め、男性にちやほやされることに情熱を注ぎ始めたらしい。
 

 貴和子さんに拝み倒され、茜とは姉妹というよりも友人に近い付き合いが始まった。タイプの違う2人は互いを茜ちゃん、都ちゃんと呼び、週末には遊びに行くようになった。渋谷の道玄坂を歩いていると、見るからに軽薄そうな男が茜に声をかけてくる。ちやほやされることに慣れている彼女は、そんな状況を楽しんでいた。
「彼女、可愛いね。モデルとかやってるの?」
 茜は両方の掌を相手に向け、胸の前で小さく振りながら、オクターブ高い声で答える。
「ええぇ、そんなに可愛くないですぅ」
「名前何ていうの?」
 彼女は小首を傾げ、膝をかくんと曲げて、耳を塞ぎたくなるような声で答えた。
「茜ですぅ」
「あかねちゃん、可愛い名前だね。よかったら、お茶でもしない?」
 茜の甲高い声と大げさな仕草は、都の癇に触った。軟派男は待っている都の迷惑など気にせず、しつこく茜を口説いた。鳥肌が立つような会話を聞かされ、傍らで待つ都はひどく不愉快だった。
 

 茜の存在は人目を引いた。桜色のサマーセーターがよく似合い、甘くなりすぎないように合わせたグレーのミニスカートから形の良い色白の脚が覗いていた。細めの編み上げブーツは、すらりと伸びる脚を際立たせている。やや厚めの唇には瑞々しいピンクの口紅が塗られ、瞳を縁取る長いまつげは念入りにカールされていた。肩までの髪に緩くあてたウェーブパーマが柔らかさと華やかさを添えている。行き交う女子高生が、茜に羨望の眼差しを投げかけていくのがわかった。茜は時折、都に得意げな視線を投げてきた。彼女が見せつけているのに気づくと、都の全身を憎しみが駆け抜けた。

 茜の媚態は、路上で手作りアクセサリーを売る青年に指輪を1つおまけさせ、混み合うファーストフード店にいた生真面目そうな会社員に自分の席を譲らせた。きっと学校では、茜が重いものを持っていれば、男子が嬉々として駆け寄ってくる。小柄で平たい顔の都が重いものを運んでいたとしても、男子は義務感で手伝ってくれるだけだろう。こうした現実を前に、都は何でも自分でするようになり、茜は男性に助けてもらう方法を覚えたのだろう。

 だが、都は茜をうらやましいとは思わなかった。学校の成績は赤点だらけ、新聞やニュースに興味を示さず、本も読まず、スポーツもせず、音楽や美術にも関心がない。唯一興味があるのは自分を飾ることだけで、読むのは軽いファッション雑誌だけ。そんな底の浅い彼女とは深く関わる気がしなかった。

 都は茜を軽蔑しながらも、貴和子さんによくしてもらっている手前、辛抱強く良い姉を演じた。茜の容姿を賞賛して虚栄心をくすぐり、時間のかかる服選びにも根気よく付き合った。喫茶店でケーキがもう1つ食べたいと甘えられればご馳走し、誕生日には欲しがっていたバッグを贈った。都が家庭教師のアルバイトで稼いだ金は茜のために消えていった。茜は都に手が届かないものは選ばず、許容範囲ぎりぎりのものを巧妙にねだった。