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連載小説「クラリセージの調べ」2-5

 朝から蝉の鳴き声が喧しい土曜日。結翔くんは部活の指導に出かけた。夏休みも終わりに近いので、帰ったら二人で外食に出かけようと決めていた。 

 二階のベランダで布団を干していると、母屋からマスクをかけた義母の糸子さんが、せかせかと歩いてくる。お義母さんは、ベランダの私を見上げ、切羽詰まった声で「澪さんっ!」と叫ぶ。

「お義母さん、どうしました?」

「ちょっと、助けてほしいのよ!」
 切迫感のある声に断ることを許さない気迫がある。

「今、下ります!」

 私が玄関におりると、お義母さんは「ちょっときて」と踵を返して母屋に戻っていく。私は玄関にかけてある不織布マスクをつけ、スニーカーをつっかけて追いかける。

 母屋のドアを開けると、Tシャツに半ズボン姿の男の子が、アイスキャンディーを手に、心細そうに立っている。

つむぎの息子のはるかよ。皇太郎と同じ4歳」
「こんにちは」
 優しく微笑みかけるが、人見知りなのか反応がない。結婚式で一度会ったときも思ったが、濡れたように艶のある瞳は紬さんに似ている。

 お義母さんは私の耳元に早口で囁く。
「紬は養護教員の研修の運営委員、貴史たかふみさんは模試監督で休日出勤。いつも預かってくれる貴史さんのお母さんが、知り合いにご不幸があって出かけちゃったんだって。一日預かってくれって、けさ紬が急いで連れてきたのよ。まあ、悠はいいけど、問題は皇太郎……」

 お義母さんは、階段を速足で上り、二階の部屋に入る。中央に敷かれた布団に、皇太郎くんが目を閉じて横たわっている。
「お熱が38℃あるのよ。小児科に連れていってほしいと頼まれてるの。この時期だから、コロナかもしれないわね」

「はい……。ご両親はどうしたのですか?」

「絹はバレー部の練習試合で、どうしても外せないんだって。やまとさんは風邪で寝ていて、子供の世話ができないのよ」
 風邪をひいた子を重症化リスクのある高齢者がいる家に連れてくるのはどうなのかと喉元まで言葉が押し寄せる。だが、絹さんも切羽詰まっていたのだろう。

「かかりつけのお医者さんは?」

「いつも診てもらうクリニックはあるけど、土曜はやってないのよ……」

「とりあえず、休日診療の小児科に電話してみましょうか? あ、今の時期は発熱外来があるところじゃないと、診てもらえないかもしれませんね」

「頼むわ、澪さん。それでさ、悪いんだけど、皇太郎をそこへ連れていってくれない?」

「いいですけど……」
 糸子さんも康男さんも高齢で、コロナに感染したら重症化リスクがある。癌を抱える95歳のおじいちゃんに感染したら、命取りになりかねない。ここは、私が動くしかない。

「それでね、帰ってきたら、この家にいて2人の面倒を見てほしいの。悠は何でもいいけど、皇太郎には消化のいいものをお昼に食べさせてあげて。あと、悪いんだけど、お父さんとおじいちゃんのお昼もお願い」

「えっ!? お義母さんは?」

「あたし、今日は子供食堂なのよ。リーダーだから、休むわけにいかないの。既に遅刻なのよ。本当にごめんね、澪さん。ご飯を食べられないかわいそうな子がたくさん来るのよ」

 弾丸のようにまくしたて、出ていこうとするお義母さんに、私の口調も荒くなる。
「急に言われても、無理です! 病児の世話はしたことがないし、悠くんとは初対面です」

「本当に悪いわね、どうにか乗り切ってほしいの。あたしも、できるだけ早く帰ってくるから。皇太郎を病院に連れていってる間は、お父さんに悠を見てくれるように頼んどいたから」

「病児保育は? 調べてみましょうか?」

 お義母さんは非難めいた響きで畳みかける。
「あなたも、両親が教師の家で育ったなら、わかるでしょう? こういうときは、互いに助け合うのよ。小さい子はしょっちゅう熱を出すけど、先生はそのたびに休むわけにいかないでしょう。あなただって、親戚に助けられながら、大きくなったのでしょう?」

 そういわれると言葉が出ない。熱を出した私を祖母の家に預け、後ろ髪を引かれる思いで出勤する母の背中が脳裏にちらつく。
「わかりました。十分なことはできませんが、できるだけのことはさせていただきます。それで宜しければ……」

「ありがとう、澪さん。これ、皇太郎の保険証と母子手帳。今朝、38℃あったんだって。さっき測ったら、同じくらいあったわ。じゃあ、できるだけ早く、帰ってくるからね」
 
 お義母さんは、透明のジップロックに入った保険証と母子手帳を渡すと、バッグをつかんで出ていってしまった。

               

                ★
 呆然としている暇などない。離れから自分のカバンとスマホを持ってきて、休日診療してくれる発熱外来を調べて電話する。受け付けてもらえたのは、私立病院の発熱外来。何年か前に親戚の見舞いに行ったことがあるので場所はわかる。車で10‐15分くらいだろうか。

 もしも皇太郎くんが感染していたらと思うと肌が粟立ち、不織布のマスクを隙間なく密着させる。防護服や手袋をつけたいが、そんなものはない。手洗いとアルコール消毒を徹底するしかない。

 皇太郎くんを病院に連れていく前に、悠くんに挨拶しなくてはならない。私は離れから昨夜焼いたバナナパウンドケーキを持ってきて、お皿に二切れ乗せ、麦茶と一緒に悠くんに出す。

「悠くん、はじめまして。みおおばさんです。今日一日、宜しくね。これ、良かったら食べてね」 
 居間のソファで図鑑をめくっていた悠くんは、私を上目遣いでちらりと見るが、小さく頷いただけで言葉が返ってこない。

「ちょっと、皇太郎くんを病院に連れていってくるね。お昼は何を食べたい?」
 しゃがみこんで、目線を合わせて尋ねると、「なんでもいい」と小さな声で答える。
「そっか。じゃあ、帰ってきたら相談しようね」

「皇太郎くん、ごめんね。起きられるかな?」
 皇太郎くんはだるそうに目をこするだけだ。いつもは元気すぎるほどの彼が弱っている姿に胸が痛む。歩かせるのは酷だろう。着替えが見つからないので、パジャマのままでも仕方ない。

 私はパジャマ姿の皇太郎くんを肌掛けにくるんで抱き上げ、階段を下りる。靴を履かせ、私の車の助手席に乗せて、シートベルトを締める。チャイルドシートが必要な年齢かもしれないが、そんな気の利いたものはない。

 カバンを取るために母家に戻ると、玄関で半袖にスラックス姿のお義父さんが様子を窺っている。
「病院に行ってきます。すみませんが悠くんをお願いします」

「ああ、頼むよ。悪いね」
 ラフなワンピースの全身に粘っこい視線が走るが、気にしている暇はない。
「帰ったら、お昼の用意をします!」


 車を運転しながら、皇太郎くんが咳をするたびに息を止める自分は薄情だと思った。いま気づいたが、皇太郎くんのマスクを持ってくるのを忘れてしまった。そもそも、絹さんは彼のマスクを持ってきたのだろうか? 幼児は着用義務があっただろうか? 院内では付けさせるべきだろうか? バッグに大人用のマスクがあるので、いざとなったらそれをつけてもらうしかない。

「のど、かわいた……」
 皇太郎くんがしゃがれ声で言う。

 お水か麦茶を持ってくるべきだったと後悔が突き上げる。小さな子供を持つお母さんは、物が出し入れしやすい大きな袋を持って外出するのを思い出す。頼りない保護者で申し訳ない気持ちで一杯だ。

「ごめんね……、病院についたらお水飲もうね」

 皇太郎くんはほのかに赤らんだ顔に不服そうな表情を浮かべる。

 赤信号で進まない車の列と、フロントガラス越しに照り付ける夏の陽が焦りをかきたてる。熱のある皇太郎くんが脱水症状にならないか心配だ。コンビニに止め、飲み物を買うべきだろうか。渋滞する車の列を前に、頼むから早く進んでと心の中で絶叫する。

 病院の駐車場に車を止め、皇太郎くんを抱き上げようとすると、歩けると言い張るので、手をつなぐ。つないだ手が熱く、じっとりと汗ばんでいる。すぐに手を洗って消毒したい衝動を堪える。

 小児科外来の前にいくと、乳児から幼児、小学生までの子供と保護者でごったがえしている。赤ちゃんを抱っこひもで抱える若いお母さん、大きなお腹をかばいながら金切声を上げて男児を追いかける妊婦さん、学校の体育着姿の少年とスーツ姿のお父さん、おばあちゃんらしき年配女性と眼鏡をかけた色白の女児……。親になることができた人々と自分の間にある溝を不意に感じ、足元が冷えるような疎外感に襲われる。

 気を取り直して受付に進むと、事務スタッフの女性に、発熱外来は裏のテントですと剣のある声で言われてしまう。そういえば、発熱外来に直接行ってくださいと電話で言われた。私の不注意で、発熱のある患者とそれ以外の患者が接触しない導線を無視してしまったことに委縮する。不慣れとはいえ、何て頼りない保護者だろうと情けなくなる。


 皇太郎くんの手を引き、一度正面の入り口を出て、自動販売機でペットボトルの水を買って飲ませる。口元を拭いてやってから、建物の裏に設置されたテントに向かう。

 テントのなかでフェイスシールドとマスクをした事務員に問診票を渡され、パイプ椅子に座わる。皇太郎くんは、頭を垂れて大人用のパイプ椅子に掛け、足をぶらぶらさせている。彼が咳をするたびに私は息を止める。

 問診票を前に、知らないことばかりで途方に暮れてしまう。住所、氏名、性別、生年月日、血液型、身長、体重、園・学校名、病歴、薬剤や食物のアレルギー。いつから症状が出たか、平熱、現在の体温、最高発熱、風邪の症状の詳細、1週間以内の行動歴や接触歴……。

 絹さんの携帯番号は知らないので、お義母さんにかけようかと思ったが、忙しいなかで迷惑だろう。保険証や母子手帳を見て、わかるところだけ埋めていく。皇太郎くんにも尋ねるが、具合が悪い幼児が自分の症状を十分に説明できないのは当然で、ボールペンを持つ手が何度も止まる。後から来た若いお母さんが、早々と問診票を書き上げ、事務員に提出していく。焦りで背中にじんわりと汗がにじむ。

「おしっこしたい……」
 足をぶらぶらふっていた皇太郎くんは、私を見上げ、遠慮がちに言う。
「我慢できない?」
 問診票と母子手帳とにらめっこをして余裕をなくしていた私は、刺々しい声で答えてしまう。
 皇太郎くんの顔が歪む。

「ごめんね、トイレ行こうね」
 具合の悪さと暑さ、母が傍にいない心細さに耐える彼を思うと、自分の冷たい態度が恥ずかしくなる。
 問診票のバインダーを伏せてパイプ椅子に置き、事務員に一番近いトイレを尋ねる。

 トイレの前に立つと、男性用と女性用のどちらに入るかで一瞬迷ってしまう。女性用に入ると、男児用の小便器があることに安堵した。

「一人でできるかな?」
 皇太郎くんは、何も答えずに便器の前に立ち、パジャマのズボンを少し下ろして用を足す。後から、彼はいつも一人でトイレに入っていたことを思い出し、プライドを傷つけてしまったと反省する。

 水道の水を出してから、彼を抱き上げて手を洗わせる。感染防止対策でエアタオルが止まっているので、自分のハンカチで拭いてやり、アルコールジェルで消毒させる。自分の消毒をいつもより入念にする。


 空欄が目立つ問診票を提出し、渡された体温計で熱を測らせると、38度4分もある。蒸し暑いテントで、体力を消耗してしまったと思うと可哀そうでたまらない。
「もう少しでお医者さんに見てもらえるからね」
「いたいことされない……? すぐおわる?」
「大丈夫。お薬もらって楽になるよ」
「みずのくすり?」
「水の薬をもらえるように、先生にお願いしてみようね」
 頼るものが自分しかいない子犬のような目で見上げられると、つい甘いことを言ってしまう。

 診察のテントに呼ばれると、水色のビニールガウンに帽子、ゴーグルをつけた女性の医師が待っている。

髙木たかぎ皇太郎くん、こんにちは」
 医師はマスクのなかで微笑みかけるが、皇太郎くんは重装備の医師に怯えて後ずさる。声や手のしわ、尖った金縁眼鏡をかけた目元から、年配の厳しそうな医師と察せられ、私まで肩に力が入る。

「お熱と咳があるのね。38度4分か。しんどかったね。お母さん、いつから発熱してますか?」

「えっと……」
 口ごもる私に、医師はゴーグルの中から鋭い視線を向ける。

「家族でコロナになった人はいますか? コロナにかかったお友達と接しましたか?」

 浴びせられる質問に答えられない私に、医師はあからさまに不機嫌になる。
「お母さん、しっかりしてください。忙しいのかもしれないけれど、自分の子供のことはしっかり見ててくださいね」
 医師は空白だらけの問診票に目を落とし、非難のこもった目で私を見る。

「すみません。私は母親ではなく、叔母です。今朝、頼まれたばかりでわからないことが多くて申し訳ございません。お父さんが風邪で寝ていると聞きました。コロナになったお友達と接したかはわからないみたいで……」

「連れてくるときは、親から必要な情報を聞いておかなくちゃだめですよ。薬とか食べ物のアレルギーはありますか?」

「すみません。あの、母子手帳を預かっています……」
 医師の叱責の言葉が突き刺さる。何度も感じた自己嫌悪が、なぜ私がこんな思いをしなくてはならないのかという怒りに変わっていく。

 医師は母子手帳をぱらぱら見た後、皇太郎くんに優しい目を向ける。
「お口を大きくあーんできるかな?」

 ペンライトを持って近づいてくる医師に怯える皇太郎くんの頭を看護師が押さえる。

「やだ……」

 私はペンライトを押しのけようとする皇太郎くんの小さな手を握って押さえる。皇太郎くんは二人がかりで体を押さえられ、医師に舌を舌圧子で押さえられて喉を診られる。

「はい、上手にできて偉かったね。次はお胸のどっくん、どっくんする音を聞かせてね」

 診察を終えた医師は、ノートパソコンで電子カルテに入力しながら、看護師に「酸素測って」と指示を出す。皇太郎くんの指先で測られた数値に頷いた医師は、私に向き直る。

「皇太郎くんの症状と、ご家族に風邪の症状があることを考慮すると、コロナの検査をしたほうがいいと思います」

「はい、お願いします」

 今にも泣きだしそうな皇太郎くんは、看護師に頭を押さえられる。鼻に検査キットを挿入された皇太郎くんの目から涙がにじみ出る。
「はい、気持ち悪いけど頑張ろうね……。あと少し、もう少し、頑張って。男の子だから頑張れるよね」

「はーい、終わったよ。よく頑張ったね」
 医師は皇太郎くんと視線を合わせ、優しく言葉をかける。皇太郎くんは、安心したのか「ふえっ……」と声をもらした後、大声で泣き出してしまう。

「風邪薬を出すから、食後に飲ませてください。解熱剤も出すから、熱が高くてつらいときに飲ませてね」

 医師の話が聞きやすいよう、看護師が大泣きする皇太郎くんと手をつなぎ、テントの外に連れ出してくれる。

「かしこまりました。本当にありがとうございました」

 医師が、「あなたも大変だね。頑張って」と労いの言葉をかけてくれた。気が抜けた私は、顔がくしゃりと歪みそうになるのをこらえ、検査結果の連絡先にお義母さんの携帯番号を記入する。