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コラボ連載小説 「旅の続き」5

  本作は、mallowskaさんが書いてくださったコラボ小説「夢の終わり  旅の始まり」の続編をmay_citrusが書いたものです。週1で更新しますので、宜しくお願いいたします。

 扉写真は、きくさんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。


 川嶋くんが初めてオーケストラと合わせる日は、風花が舞う凍えそうな夜だった。深い闇に浮かぶ月は、肌に刺さりそうな光を放っていた。

 香川先生に頼まれ、フェルセンのコーヒーとガトーショコラを差し入れにきた私は、指揮者の許可を取り、ホールの客席で見学させてもらうことにした。

 香川先生から、予算不足のC響は、練習場所と時間を十分に確保できないと聞いた。そのため、月1-2回の練習日は、時間を効率的に使うのが当然になっているという。
 指揮者は川嶋くんのために、3時間の練習時間のうち2時間を当ててくれている。2度目の合わせは、リハーサル日になってしまうので、実質的に今日で仕上げなくてはならない。リハーサル日は私の東京出張と重なっているので、見学できるのは今日だけだ。

 ステージ上では、オーケストラの団員と、川嶋くんの前に演奏するモーツァルトのオーボエ協奏曲のソリストが音出しをしている。様々な音域の楽器が空気を震わせる。客席でコンサートの開演を待つときのような高揚感が、全身を駆け巡る。弦楽器には過酷な寒さと乾燥だが、限られた時間で音楽を仕上げようとする団員の意気込みが、それを乗り越えていくように思われた。

 川嶋くんは、私の隣でカイロで手を温めている。今日の彼は、気が張っているせいか、言葉少なだ。

 吹奏楽部の練習を終えた香川先生が、息せき切ってホールに入ってきて、私たちの横にどさりと腰を下ろした。
「ソリストの大谷おおたには、私の教え子なんだ」
 先生が、ステージ上で指揮者やコンサートマスターに希望を伝えている小柄な青年を指す。
「中学のときから抜群に上手かった。吹奏楽が強いN高に進んで、音大に進学し、首席で卒業。ドイツに留学していたんだが、日本のオケに入りたくて戻ってきた。求人が少なくて競争率が高く、厳しいそうだ」
 私は頷いて尋ねた。
「このオケにも、先生の教え子がいるんですか?」
「結構いるよ。吹奏楽出身者が多いから、木管、金管、打楽器はレベルが高い。だが、弦の経験者は少ない。趣味程度は弾けても、オケで弾けるレベルとなると……。だから、本番はプロオケから助っ人を頼むことがある」
「この田舎では、オケを持っている中学、高校は数えるほどですからね……」

 協奏曲が始まったので、私たちは口を噤んだ。
 ソリストの音は華があり、表現の幅が広く、小さな体から紡ぎ出される多彩な音色に終始惹きつけられた。圧巻だった。
 1回通した後、指揮者がオケとソリストに2、3要望を出し、ソリストからもいくつか希望が出された。それらを踏まえた2回目の合わせも難なく進み、彼に割り当てられた時間より早く終了になった。

「彼は大学の頃から、何度もこの曲をオケと演奏しているから、完成度が高い。私も直したいところはみつからないね」
 先生が教え子に満足そうな眼差しを送る。

「こんなに上手くても、プロオケに入れないんですか?」
 川嶋くんが強張った声で先生に尋ねる。
「うん。彼くらいのレベルは、たくさんいるからね。彼は今年オケに入れなければ、普通に就職しようと音楽事務所や楽器店を中心に就職活動中だそうだ」
「そうですか……」
 着ている群青色のニットのせいもあるが、川嶋くんの顔は青ざめて見える。あのソリストの後で弾くことが、彼にプレッシャーを与えているのだろう。「自信を持って」という言葉が彼を傷つける気がし、「いよいよだね」としか言えなかった。

                  
           ★
 休憩が終わり、ステージ上では、バッハのピアノ協奏曲第5番を弾く10数名の弦楽器の団員が、それぞれ音出しを始める。

 コンマスがピアノの音を出し、皆の音合わせが済むのを見計らい、香川先生がステージに上がる。

「私が指導する吹奏楽部の金管五重奏が、思いがけなくアンサンブルコンテストの全国大会に進めることになり、顧問として付き添うことになりました。そのため、どうしても皆さんと一緒に弾けなくなりました。本当に申し訳ございません。代わりに弾いてくれるのは、川嶋稜央かわしまりょうさんです。アマのコンクールで2位になる腕前で、素晴らしい音楽性を備えています。コンチェルトは初めてなので、彼が実力を発揮できるよう、皆様の力を貸してください」

 川嶋くんは先生に促されて立ち上がり、肩をそびやかし、大股でステージに上がった。彼の虚勢は不安の裏返しに違いない。私は彼が実力を発揮できるよう祈った。

 川嶋くんに指揮者と団員の好奇の目が集中する。

「川嶋です」
 やや上ずった声が、音響のよいホールに響く。

「ただいま、香川先生からご紹介いただいた通り、代役を務めることになりました。僕のような者が協奏曲を弾けるのは、人生で最初で最後じゃないかと思います。皆様のお力を借り、いい協奏曲にしたいです。右も左もわからない状態で……、いろいろご迷惑をお掛けすると思いますが、宜しくお願いします」

 雄弁ではないが、誠意の感じられる挨拶に、楽器を持った団員の足踏みと弓振りによる温かい拍手が起こる。客席に下りてきて、私の隣に掛けた香川先生は、ほっとしているように見えた。

「指揮者の倉橋くらはしです。遠方からありがとう。よろしくな」
 指揮者の倉橋さんは、熊のように堂々とした体躯の中年男性で、前に勤めていた会社の課長を思い出させる。音大で指揮を学び、国内外のコンクールを渡り歩いたが芽が出ず、実家の楽器店を経営しながらC響を率いているという。大きな楽器店なので、市内のオケ、吹奏楽関係者に限らず、ピアノを持っている家はたいてい彼の店にお世話になっていると先生が教えてくれた。

「コンマスの宗方むなかたです。よろしくお願いします」
 宗方さんは50代くらいで、小柄だが眼光鋭く、物腰はやわらかくても威厳を感じさせる。香川先生が、宗方さんはバイオリン専攻で音大を卒業後、プロオーケストラのオーディションを何度も受けたが合格できず、会社員をしながらC響で弾いていると耳打ちした。
 強張った表情で2人と握手を交わす川嶋くんは、線が細いこともあり、少し頼りなく映る。

「まず、香川くんから聞いているテンポで通してみよう」
「宜しくお願いします」
 川嶋くんが、倉橋さんの声量たっぷりのバスに圧されているように見えるのが心配だった。

 川嶋くんは指揮者とオケにぺこりとお辞儀をし、グランドピアノの椅子に座わると、やや時間をかけて高さを調節した。大きく二回深呼吸してから、やや前かがみの姿勢で両手を鍵盤に乗せる。

 指揮者と弦メンバーには、彼の実力を見定めようという空気が漂っていて、私まで胃が締め付けられる。

 張りつめた空気のなか、倉橋さんがタクトを上げ、川嶋くんと目を合わせる。タクトが鋭く振り下ろされたタイミングで曲が始まる。香川先生と何度も練習したかいあり、出だしは上手くいったようだ。

 第一楽章は、ピアノとオケのユニゾンから始まる。川嶋くんの音に練習のときのような精彩はない。テンポが前のめりになり、少しづつ弦とずれていく。彼の怜悧な横顔が険しさを増す。ソロになり、ややペースを取り戻したように見えるが、いつもの彼の端正な演奏は見る影もない。何十回も弾いている曲なので、指は機械的に鍵盤を叩いているが、先生と練習したときの注意点は反映されず、ただ流している印象だ。彼の実力はこんなものではないと声を大にして叫びたくなる。

「やはりな……」
 先生が小さくつぶやく。
「彼を怖気づかせないように黙っていたが、初めてオケと弾くと、自分の音がよく聴こえず、これでいいのかと不安になってしまうことがある。オケの音に圧倒されてしまうんだ」
 先生が川嶋くんに、オケに飲まれる可能性を指摘したことが脳裡をかすめる。
「でも、川嶋くんは、高校のときからオケの音をイヤホンで聴きながら、弾いてたと言っていましたが……」
「CDは、腕利きのレコーディングエンジニアの手で調整されている。いまは、むき出しの音が四方八方から飛び込んできている。近くの楽器の音が大きく聞こえ、他の音を聞こえにくくする。自分の音さえ見失い、これでいいのか不安になる……。今回は弦だけだが、フルオーケストラだと、その衝撃はさらに大きい」
 音の渦のなか、孤軍奮闘している彼に、心の中で「がんばれ」と叫ぶしかできないのがもどかしい。
「余裕が出てくると、周囲の音を聞けるようになるんだが……。いまは一人で弾いているな……」

 第一楽章が終わり、川嶋くんはほんの一瞬、落胆とも放心とも取れる表情を見せたが、すぐに鋭い眼差しを取り戻す。その集中力は流石だ。 

 ピアノソロ中心の第二楽章に入ったので、彼はようやく自分のペースを取り戻したようだ。甘く美しい旋律が、軒を打つ雨だれを思わせるピチカートに乗り、ホールを満たす。ねっとりとした弾き方から、彼が父親に寄せる思慕が伝わってくる。

「持ち直したようですね……」
「ああ。でも、緊張のせいか、少しづつテンポが上がっている。彼に合わせようとする弦と、テンポを保とうとする弦がいて、そこから少しづつずれてきているだろう……」

 短調でテンポの速い第三楽章に入る。
 川嶋くんは、第一楽章のときよりは、落ち着いて見える。オケとのユニゾンも上手くいきはじめ、バロックらしさが出てきた。ソロでは、本来の透明感、端正で粒だった音色が時折顔をのぞかせ、表情にもいくらか余裕が見える。香川先生と、テンポが狂わないように何度も練習した難所を無事に過ぎ、私は大きく息をついた。

               
              ★
「川嶋さんの音は繊細でいいね。トリルもいい音出してた。素晴らしかった!」
 倉橋さんは、相好を崩し、弾き終えた川嶋くんを持ち上げる。

 川嶋くんは小さく頭を下げた後、思い詰めた声で切り出す。
「あの、オケの音が大きすぎて自分の音が聴こえなかったんです。全体的に抑えてもらえませんか」

 彼はショック状態で平静さを欠いているのだろう。だが、礼儀を欠いた口調に私の心臓が跳ねあがる。

「うん、初めてのコンチェルトだとそうだな。みんな、気持ち抑えて」

 指揮者の倉橋さんが柔軟に対応してくれたので、私は小さく息を吐く。

「では、こちらからも1つ提案だ。川嶋さんの繊細で端正なピアニズムをしっかり聴かせたいので、第一楽章と第三楽章は若干テンポを落とさないか?」

 川嶋くんは、倉橋さんをきっと見据える。
「テンポは変えたくありません。その方が気持ちを乗せられるんです」
 
「そうか。でも、気づいただろう。オケの中には川嶋さんのテンポについていけてない者がいる。バロック音楽の魅力は、旋律と伴奏の引っ張り合うような緊張関係だろう。ずれまくって、それが聴かせられなかったら、バロックらしくなくなるよ」

「少しくらいずれても、緊張感や疾走感の感じられるスピードでやったほうが僕らしいんです」

 空気がぴしりと張りつめる。
 確かに先生は、オケに自分の考えを伝えるよう助言した。だが、最初から、こんな斜に構えた態度で大丈夫だろうか。そっと先生の表情を伺うと、気遣うような眼差しで川嶋くんを見据えている。

「川嶋さんがそうしたいなら、それでいくか」
 倉橋さんは、ソリストを立てることに徹してくれたようで、コンマスの意向を窺うように視線を投げる。

「いいでしょう。みんな、合わせられますね?」
 宗方さんが呼び掛けてくれたおかげで、不穏な空気がいくらか和らぐ。


「よし、もう一度、通すぞ。オケは、いつも以上に俺を見るように!」

 再び合奏が始まる。オケが抑えてくれたおかげか、川嶋くんは自分の音が聴こえるようになったようで、表情にいくらか余裕が出てくる。彼が勢いづき、テンポが上がっても、倉橋さんが合図を出しながら、オケを上手くコントロールしてくれる。

 第二楽章に入ると、指揮者がピチカートを刻むタイミングをタクトで合図し続け、コンマスも表情や体の動きで団員をリードし、皆が川嶋くんに合わせてくれる。川嶋くんは、それに乗り、気持ちよさそうに演奏している。

 第二楽章から、弦のつなぎで第三楽章に移る。川嶋くんは蓄積してきたエネルギーを放出するように駆け抜ける。舞曲風で活気のある第三楽章は、音響の優れたホールで聴くと、フェルセンで聴いたときよりダイナミックに響く。

 その後、倉橋さんは、川嶋くんのテンポが変わり、オケとずれてしまうところを何か所か重点的に合わせた。だが、川嶋くんの気持ちが乗るタイミングに、オケが合わせにくい箇所が出てくる。

 特に、ピアノの左手と弦の通奏低音がリエゾンする箇所で、川嶋くんの気持ちが逸り、オケとずれてしまう。

「そこは、楽譜にテンポや強弱の変化の指示はないよ。どうして、そんなにアップテンポでクレシェンドをかけるんだ?」
「音楽に入り込むと僕の体がそう反応するんです。あまり言われると気分が萎えます」

 彼の感情的な言動に、空気が張りつめる。

 倉橋さんが頑なになっている川嶋くんを前に、時計とにらめっこをしながら提案する。
「少しづつテンポ上げて、クレシェンドしたいんだね。なら、オケもそれに合わせよう。川嶋くんも、左手をもう少しくっきりと鳴らして」

 宗方さんが了解と頷き、団員が指示を楽譜に書き込む。
 何度もやり直しをさせられる上に、オケが譲歩する点が増えていく。川嶋くんの態度が取りつく島がないほど尖っていることも手伝い、団員に不満が蓄積されていくのがわかる。

 貸し切り時間が残り一時間を切った頃、倉橋さんが見計らったように切り出す。
「やはり、第一楽章と第三楽章は、テンポを落とそう。それで、かなり合わせやすくなる。川嶋さん、どうかな?」


「かしこまりました……!」
 余裕がなくなっている川嶋くんは、慇懃無礼に言い放ち、間髪入れないタイミングで言い継ぐ。
「その代わり、ピアノをもう少し硬い音に調律できませんか? テンポを落としても、それで厳格さと切迫感が出せると思うんです」

 彼の発言に、誰かが忍び笑いをもらす。それを合図に、小声で不満をもらす団員が出てくる。

「わかった。リハーサルまでに、ホールの調律師に頼んでおこう。皆さんお疲れだろうから、15分休憩して、8時15分に再開!」

 倉橋さんが険悪な空気を一掃するように休憩を告げ、オケメンバーがぞろぞろと席を立つ。

「皆さん、ロビーにフェルセンのコーヒーとケーキを用意しています! 遠慮なく、召し上がってください!」
 香川先生が両手でメガホンを作って叫ぶと、団員から歓声が上がる。フェルセンはC響御用達なので、味は証明済だ。

「香川くんの差し入れ? ありがとう。あそこのコーヒーもケーキも美味いんだよね。羽生さんに宜しく」
 コンマスの宗方さんが、愚痴を言っている団員の肩に手をまわし、「さあ、いただこうじゃないか!」と出ていく。

 川嶋くんは、力なくステージから降り、荷物を置いている客席に腰を下ろす。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
 私は川嶋くんに駆け寄って労う。
「お疲れ様。コーヒー飲みに行こうか?」
 香川先生が、魂が抜けた目で虚空を見据える川嶋くんを立たせる。

 私も付き添い、コーヒーポットとカットしたガトーショコラを並べた細長いテーブルの前に川嶋くんを伴っていく。

 紙コップと紙皿を持った団員は、それぞれロビーの長椅子に座り、フェルセンの味を楽しんでいる。

 テーブルの前でコーヒーにミルクを注ぎながら、若い団員2人が不満を爆発させている。
「あのでかい態度、何だ。音は小さいし、合わせる技術もないくせに」
「音大出てないらしいよ。ヤマハくらい通ったのかな? 態度と表情だけは、一流ピアニスト気取り」
「言えてる。あとさ、第二楽章、あんなにルバートかけて濃厚に弾く必要ある?」

 私たちがテーブルに近づくと、2人は気まずそうに去っていく。

「気にすることないよ」
 先生がコーヒーを紙コップに注ぎ、川嶋くんに渡す。
「大丈夫です。あの方々の言う通りです。せっかく、機会をいただいたのに本当に申し訳ございません。頭を冷やしたら、みんなに謝ります」

 川嶋くんは先生に深く頭を下げ、コーヒーを持ったまま、力なくホールの外に出ていった。外は凍えそうに寒い。コートも着ないで外に出て、風邪を引いたら大変だ。私が止めようとすると、先生に腕を掴まれる。
「彼は自分がどうするべきかわかっている」
「コートを持っていってあげるだけでも。いま風邪を引いたら大変です」
「私が行こう」
 先生は私が持ってきた川嶋くんのコートを持ち、寒空の下に出ていった。

               

                ★
 開始5分前に戻ってきた川嶋くんは、強張った表情のまま、倉橋さんに近づき、何かを耳打ちしている。倉橋さんは頷き、頻りに頭を下げる彼の肩を豪快に叩く。

 香川先生は、「彼は大丈夫だよ」と穏やかな声で告げ、私の隣に座った。


 団員が全員戻ると、倉橋さんは、川嶋くんを指揮台に立たせた。
「川嶋さんから、伝えたいことがあるそうだ」

「皆さん、先程は失礼な態度をとってしまい、本当に申し訳ございませんでした。恥ずかしい話ですが、皆さんの音を聴いて、怖気づいてしまって……」
 川嶋くんは少し言い淀んだが、気を引き締めて続ける。
「ステージで弾く前に皆さんの音を聴いて、皆さんは長い時間……、子供の頃からの方もいると思いますが、多大な時間とお金をかけて、他のことをする時間を犠牲にして音楽と真剣に向き合っているのだと伝わってきました。失礼な言い方ですが、演奏の第一線で食べていく才能がないとわかってからも、市民オケで音楽と向き合い続けているのだと……。皆さんの音を聴いて、それが直球で伝わってきたんです。僕は才能の限界を思い知らされるのが怖くて、家の事情を言い訳に、ピアノの道に進むことから逃げていたと思い知らされました。そんな恥ずかしさで、皆さんと弾くのが怖くなりました。その状態で、皆さんと弾き、自分の音が聴こえなくなって平静でいられなくなったんです。自分を奮い立たせなくてはという思いと、技術不足を隠したい思いで虚勢を張り、失礼な態度をたくさんとってしまいました。大人気ないことをして、皆さんの貴重な時間を無駄にしてしまい、本当に申し訳ございませんでした。今度こそ、皆さんと協力して、協奏曲を演奏したいです。どうか、僕を助けてください。お願いします」

 川嶋くんが深々と頭を下げる。

 一瞬の沈黙の後、足踏みと弓振りによる拍手がさざ波のように広がっていき、大きな波になる。コンマスの宗方さんが立ち上がり、壇上の川嶋くんの肩を抱く。さっきロビーで悪口を言っていた団員の一人が、ヴィオラを置いてスタンディングオベーションをしている。

 私も拍手を送りながら、気負いから解放された彼の音は、また変化すると予感した。

 それは間違っていなかった。

 川嶋くんが弱みを見せ、心を開いたことで、指揮者や団員の彼への接し方も変わった。残りの練習時間で、彼らはどうしたら上手くいくかを一緒に考え、提案してくれた。

 川嶋くんの言動も謙虚になり、彼らの意見に耳を傾け、真摯に向き合った。その結果、上手くいかなかった部分が一つ一つ解決されていった。それに連動するように、ナイフのように尖っていた彼の音は、心なしか角が取れていった。彼の音楽は、また一つ階段を登った。

 川嶋くんとオケが話し合いながら音楽をつくるのを目の当たりにしながら、私はドイツにいる彼のお父さんにこの光景を見せられないのが悔しかった。

 だが、彼の進化は、必ず協奏曲に反映される。ドイツから一時帰国して会場に来てくれる彼のお父さんも、それを感じ取ってくれるだろう。

 私は、当日会場に来られない香川先生と透の代わりに、川嶋くんの進化を見届けようと心に決めた。