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「マルクスのエコロジー論の意義と射程-物質代謝論から」のメモ

本文は岩佐茂「マルクスのエコロジー論の意義と射程-物質代謝論の視点から」『マルクスとエコロジー」(堀之内出版、2016年)の読書メモです。
この論文では、マルクスの思想とエコロジーの関連について整理を行い、その理論の射程が論じられている。

〇これまでのマルクス主義と岩佐氏の立場

これまでマルクス主義は、資本の論理による環境破壊に対しては厳しい批判を行ってきたが、自らのうちにエコロジーの視点を内包しているかどうかということについては十分な議論がなされてこなかった。そのため、マルクス主義周辺から「エコ・マルクス主義」、「エコ社会主義」が提唱されてきた。(ナオミ・クラインが標榜しているのは「エコ社会主義」であったはずだ。)この背景には、既存のマルクス主義が環境保護を視野に入れないままに生産力の発展を肯定的に捉えていることへの反発と、崩壊した社会主義体制や「社会主義を目指している」中国が深刻な環境汚染を抱えているという現実認識であった。
このような現状に対し、岩佐氏はマルクスの思想は本質的にエコロジーの思想であるとし、その理由にマルクスは人間と自然の物質代謝を理論構築の基礎に据えているからであるとした。

〇物質代謝の攪乱と資本の論理

物質代謝とは「人間が外的自然を生体内に摂取して消化・血肉化し(同化)、排泄(異化)する過程」のことだが、環境が汚染され破壊され、有害なものを摂取することで人間の健康は損なわれる。このことを物質代謝の攪乱と呼ぶ。
物質代謝の攪乱は、環境汚染物質や大量生産・大量消費・大量廃棄、自然の大規模な乱開発、有害な人口化学物質の摂取などによって引き起こされる。
とりわけ、新しい産業技術が実用化されるときには物質代謝の攪乱が発生しやすい。その理由としては(1)その技術が生態系にどのような影響を与えるか、そのことについての科学的知見の不十分さによるもの、(2)利潤を最大化しようとする資本の論理によるものである。資本の論理は、性能の良い商品を生産する産業技術に関心を集中させるが、その技術が環境に与える負荷には無関心であるからである。

〇環境破壊に対する議論について

日本で公害が深刻化したときに、その要因として、資本の論理に求める見解と、産業技術に求める見解が対立していた。工業化や都市化によって引き起こされるとみなすのも、後者のバリエーションである。そして政府や産業界に支持された。
前者は資本主義的な生産関係ないし、制度が公害を日超す原因であるという考え方(生産関係説)。公害を引き起こした企業にその責任があることを明確にし、その加害責任を問うた。論理的に見たときに、理論的厳密さを欠く表現でもあった。公害は、資本主義的生産関係によってではなく、その関係を担っている一方の、しかも支配的な極である資本の論理によって引き起こされるからである。
この議論は二者択一的な議論に収斂させないことが重要。両者は密接に絡んている。

〇生活の論理

環境保護を主張するのは、資本の論理との対抗でいえば、生命や健康を守ろうとする生活の論理といえよう。生活の論理とは「安全で快適な生活環境のなかで良く生きるために自らの生活を他者とともに大切にし、他者の生活を自らの生活と同じように尊重しながら、労働生活を含めて、生活を享受する価値的態度」のことだ。

〇大工業と物質代謝の攪乱

マルクスは「大工業の本質」は発達した資本主義的生産の在り方であるとし、「大工業の本性」は動力機・伝達機構・作業機からなる発達した機械システムそのものであるとし、その間を区別して論じた。その意味は、代行業自体が大規模な大量生産を導く生産、あるいは環境破壊を不可避にする生産を意味するものではなく(「大工業の本性」の概念が明らかにしている)、大工業の本質も「大工業の資本主義的形態」が抱え込んでいる現実の大工業の疎外されたあり方であるということである。
工業化は資本の論理によって疎外化されているので、労働者を略奪するだけでなく、自然から大規模に略奪し、環境汚染を不可避に伴ってきた。工業化は、疎外された形態で一面的にいびつに展開されてきたのである。

〇農業による物質代謝の攪乱

近代以降の農業は、工業化の進捗に伴い、機械化が進み、化学肥料や農薬が用いられるようになった。このような農業は農作物の収穫量を増大させたが、農薬を用いると害虫だけでなく、生命あるものを殺傷する。化学肥料の多用によって、土壌からミミズなどの虫や微生物が減少し、土壌の有機質が失われ、砂漠の土のように固くなり、劣化してしまう。
農業と工業の関係についての論争としてベントンとグルントマンの論争、玉野井芳郎の「広義の経済学」の議論が紹介されている。私はこのあたりの議論の意義についてはあまりくみ取れていない。