目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅2 旧石器時代と群馬県

【旧石器時代】
 古い時代の遺跡って、なんだかイメージがしにくいし、個人が出てくるわけじゃないから投影しづらいし、あんまり好きじゃないんだよね、という人は少なくないでしょうね。そんな遺跡を少しでも分かりやすくしてくれるのが博物館・資料館です。でもこれらは上手に使わないと、その価値を十分に生かしきれなくなってしまうので注意が必要なんだな。
 まず博物館・資料館は遺跡を見る前に訪ねよう。実物を見てから博物館に入ったとして、重要なポイントを見落としていたことに気がついたとき、あなたはもう一度遺跡に戻ってそれを見に行きますか? ほとんどの人が「まあいいか」と思ってしまうのではないかな。どこの何を見るべきなのかをしっかりと把握してみるために、まずは博物館を観ること。
 そして二番目に重要なのは映像視聴や説明レコーダーの貸し出しは積極的に、ということ。特に芸術作品などは何がすごいのか分からないことだらけ、ということもありますよね。それを解説を聞きながら見ることによって、ポイントを絞ってみることができる。いまは多くの博物館・資料館が様々な工夫をしてみる人を楽しませようとしていますよ。
 その点でいうと、あらかじめホームページを見て予習していくことも、学習には有効な手立てですよ。これらの「博物館を見るときの心構え」は、古い時代の遺跡の博物館だけでなく、新しい時代のものや、美術展等を観るときにも意識したいものですね。
 学校の歴史の授業で一番初めに習って、そして一番短い時間で習い終わる時代といえば、文句なく旧石器時代。ほとんど習ったことがない、という人もいておかしくないほど、雑に扱われてしまいます。まあ確かにあまりに古い時代過ぎて、イメージしにくいというのはあるかもしれません。でも「日本のあけぼの」の時代ですから、ある程度のことは知っておきたいよね。

 戦後間もないころ、日本の歴史は縄文時代から始まるというのは常識だった。縄文より前の地層には火山灰地層、つまり関東ロームが分厚く分布していて、人間が住める環境ではなかったと考えられていたからね。
 そんなときにローム層から旧石器と思われる石器を発見したのが相沢忠洋(あいざわ ただひろ)。彼は当時、行商をしながら石器や土器を探す、考古学好きの青年だった。発見までの道のりや発見後の苦労などは、その著書「『岩宿の発見』 幻の旧石器を求めて」に詳しいので、ぜひ読んでみてほしい(講談社文庫から出ているので手軽に読めます)んだけど、岩宿遺跡に行ってみると、岩宿ドームという施設が造られていて、当時の地層を保存してある。多くの遺跡に共通していることだけれど、立派な博物館も遺跡の近くに造られている。岩宿博物館だ。
 さてこの岩宿博物館、多くの石器を展示してあるし、石器の作り方のビデオも見られる。またマンモスの骨格標本もあるなど、それなりに展示の内容は充実しているんだけれど・・・ 残念ながら相澤が発見した「槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)」は展示がされていない。つまり見られないんだね。これを見たい場合は、車で二十分ほど行ったところにある、相澤の奥さまが館長を務めている「相澤忠洋記念館」に行く必要があるんだ。ここでは相澤がどうやって研究を進めてきたかが分かるビデオのほか、彼が発見した多くの石器とともに、日本の歴史を塗り替えた旧石器が展示されている。ぼくは訪問した時に奥さまからお茶をごちそうになった。なぜ博物館・記念館と二つも施設があるのかなどおもしろい話も聞けるので、ぜひ訪ねてみてほしい。

 岩宿遺跡の重要性は、日本の考古学界をぬり替える発見だったことだ。歴史というのは新しい史料の発見がされれば、それまで常識だったことが覆ることは珍しいことじゃない。おそらく全員に近い大人が「源頼朝」だと思っているあの肖像画、想像できるよね。あれだって正式には「伝源頼朝像」と呼ばれていて、歴史学会ではあの肖像画を頼朝と考えている人はどんどん減ってきている事実があるんだ。歴史が書きかわる瞬間にロマンを感じる時代、それが「日本のあけぼの」の時代だね。

【群馬県に来たのなら】
 富岡市にある世界遺産・富岡製糸場は外せない観光スポットですよね。幕末に始まった外国との貿易では、生糸は日本の主力輸出品でした。はじめは日本の生糸は品質がよいと評判だったのですが、高値で取引されるようになると品質の劣る品物も出始めたため、明治政府は「富国強兵・殖産興業」のために、外国からの技術を取り入れて生糸の品質を向上させる必要があったのです。そこでフランス人技師ブリュナを雇ったのが渋沢栄一。建物は木材で骨組みを造り、その間にレンガを積むという工法が採用され、また繰糸場の建物は、当時としては珍しい「柱を一切使わない」トラス工法が採用されました。これは現在でも見ることができます。また明治初期としては労働環境が整っていたことにも注目です。控除の数は400人という世界最大規模の工場が造られ、勤務時間は1日平均8時間程度、毎週日曜日は休日で、工女たちの健康管理のためにフランス人の医師も常駐しました。官営だった期間は短いのですが、まさに官営模範工場といえるでしょう。ぼくが富岡に行ったときにはなかった群馬県立世界遺産センター「セカイト」という博物館もあります。見学に行く前に寄ってみてください。

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