見出し画像

ノーマル、ニューノーマル、ノーノーマル...

今日は、そんなつぶやきの延長です.気づけば年の瀬.

最近何となく、自分らしさとか人間関係とかについて考えていることが多いせいか、こういう話題が多めになっているのかもしれない(笑)まあ、就活のおかげ(せい)だろう.


昨今の状況も相まって、ニューノーマル・新常態という言葉が色々と話されている気がする.

しかしそれと同時に、多様性だとか誰も取り残さないという言葉がコロナ禍になる前から話されてきていたと思う.

最近自分の中では、その二つの文脈が絡まっていて、ノーマルだとかニューノーマルだとか言っているということが、多様性がまだ浸透していないということなのではないかと思い始めている.

対して、「多様性」とか「みんな違って〇〇な社会」が浸透した世の中では、みんながみんなの中にある(自分が持っている知識や経験から得てきた)ノーマルを信じていて、他のノーマルのことを比較はするけど批判はしないような寛容なのかな、と思っている.

結局のところ、隣の家の芝は、隣の家の人が知っている芝の手入れ方法でしか手入れされていないだけなのだ.それが自分が知らない方法だから羨んだり嫉妬したり否定したりする.

かの言う僕も、僕の中にある僕が信じるノーマルは、生きてた25年で経験してきたことからしか出てこなくて、抜け出せはしない.

・・・

ちなみにこの文章を書いている動機は、先日読んだシンガーソングライターのにしなさんの記事.中々に心に刺さって、自分の気持ちを整理しようと思って書いている.ぜひ同世代に読んでほしい記事だ.

「〇〇らしく」というカテゴライズという言葉で出てくるが、確かに〇〇らしくって枠組みの中に組み込まれる感じあったなと感じた.
男らしく、女らしく、自分らしく、学生らしく…

なんでそういうことをしているのか、なんでそう思うのか、ということに意図や理由が必要な時はもちろんあるけれど、そこに〇〇らしい必要はあるのだろうか.

確かにカテゴライズされることで安心したり整理されたりすることもある.

でも、きっとカテゴライズされる外側の方がずっと面白いはずでもある.

「多様性」という言葉が溶けていくことは良いことだなと思う.もちろん、零れ落ちるものがなくなった後で.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?