見出し画像

簡単な決めごと

前記事で「自死を考えない」という私の簡単な決めごとについて書きましたが、他にもいくつかあるので紹介します。
中には恥ずかしくて人に言えないようなことや、青臭いこと、マンガの台詞かというようなものがありますので、普段は決して人に言ったりするようなものではありません。
でも、どの言葉も私にとっては大事なお守りのようなものです。

徳を積みたい

小学生ぐらいだったと思います。
ある日突然「徳を積みたい」と思ったのです。
明らかにおかしい、宗教者やアーティストが時折言及する天啓に似て、脈絡なく、どこからやってきた考えかもわかりませんが、本当にそう思ったのです。
今思えば、これは自分が「善く」生きたいという方向性を示してくれた言葉であるような気がします。
その後の人生でずるくなることや怪しい方向への誘いに遭遇した時に、それは私が「善く」生きることに繋がらない、「徳を積む」ことにならない、そう考えることで軌道を修正することができました。

黙って、従わない

一時期よく聞いていたあるバンドのメンバーがインタビューで話していた内容で、人に嫌な指図をされたら反論しないけど決してその通りにはしない、というものがありました。
それを読んだ時、あーいい方法だなと思ったのです。
反論したりケンカしたりしないけど、言うこともきかない。
かなり横暴な家族に囲まれた生活で、嫌なことを言われることも多かったので、そんな時は黙って聞いていて、聞き流すようにすればいいんだと考え、実行しました。
波風を立てず、自分を守る方法として役立ちました。

しあわせだと思えないと、生きてることにならない

これは何かのマンガで読んだネタじゃないかと思うのですが、少なくとも高校生くらいの時にはもうこの考えを持っていました。
高校生と言えば、ひどい私の人生の中でも特にどん底にいた時で、全くしあわせではなかったので半ば死んでいたようなものです。
だからこそ、小さくてもしあわせと思えること、思える瞬間を探し回りました。
とにかく自分がしあわせを感じる好きなもの、好きなことを探して、大事にしていました。それは、今でも続いています。

ゆっくり、後戻りなし

器用な性質ではなかったので、物事をやるときに時間がかかります。
でも、間違いや失敗がないようにしておけば、スピードがゆっくりでも最終的には問題なく時間内にやり遂げられるのではないかという、うさぎと亀の亀方式です。
このポリシーは、仕事をする上でよく自分を支えてくれます。

挨拶はする

ご近所や職場などで、こちらから挨拶しても返してもらえないことがしばしばあります。
毎日のことだと気になったりイライラしたりします。
人によって、また同じ人でも日によって返してくれたりくれなかったりもあるので、そのことを気にすると気分が落ち着きません。
挨拶はよいもので、相手がするしないに関わらずしていこうと決めると、朝から気分よく過ごせてしまうのでありがたいです。
朝に限らず、一日中どのような場面でも、挨拶する機会があれば積極的に丁寧にするようにしています。

知らないより、知っている方がいい

ほぼほぼ家族親戚のことなんですが、子どもから大人に成長するにつれて、それまでは知らないでいたことを聞かされたり見せられたりすることが増えていきます。
特に母は、私が大人になるのを待ち構えるように、自分の日々の愚痴を私に大量投与してくるので、聞きたくないことを沢山聞かされる羽目に陥りました。
昔あって今も根に持っているもめごととか、昔された意地悪とか、昔あるいは現在の辛さや腹立ちなど、大体ネガティブな内容です。
それを聞かされることで、私を一番可愛がってくれている祖母はひとり息子の父を溺愛し嫁いびりをするひどい姑に変貌したりします。
受け取る情報の取捨選択が上手くできない状況で、知りたくないことに沢山触れるとメンタルをやられます。無力感に苛まれます。
そのような環境の中で、要するに開き直ったのがこれです。
自分が知ったことを「知りたくなかった」と否定するのではなく、知ることを善とし、「知り得た情報」として受けとめることにしたのです。そうすることで、その「情報」を整理し取り扱うことができるようになります。

何もないより、ある方がいい

生きてるとしんどいことが多くて、こんなこと経験するくらいなら、何もない方がマシと思えることばっかりです。
例えば、離婚するのが大変だから、じゃあそもそも結婚なんかしなければよかったのではないかとか。
子育てが大変過ぎるから、子どもなんか生まない方がよかったとか。
でも、何もないということは、ネタがないということなんですよね。
大阪人的発想なのかもしれませんが、ネタって言うのは多ければ多いほどよいのです。
だから、それが辛くても「またネタをもらえた」と思うようにしています。 
まあ、開き直りです。

物事の意味はひとつに決まらない

あの人はいい人だと思っていたら親が急にその人の悪口を言い出したり、自分としては一所懸命やってそこそこやれたと思っていた仕事が批判の的になったり、物事の評価や感想は人によって違うし急に変わったりもします。
生来ぼんやりしていた自分にとっては、その辺を聡く捌いていくのが至難の業で、そもそもなんでそんなに違ってたり変わったりするのかがわかりませんでした。
でも、そういうもんだ、そうなるんだと、事実を受けとめてしまうと、ゆっくりですがその多様性を理解していくことができました。それを見越して動くとかまではなかなかできませんが、それに気づいて受け止めるだけで世界を理解する端緒が見つかったような気がします。

目的達成のためなら、すべての方法を試す

物事が上手くいかない時(そんな時ばっかりですが)に、なんとか事態を収拾し好転させる方法はないかと思いつく限りの方法を試していくのですが、中には選択肢として挙げながらも「それだけは無理」「その方法だけは絶対やりたくない」というものが混じっています。
でも、それを避けていると人生詰んだ時にどうしようもなくなってしまい、頭の隅で「もうひとつだけ方法があったよね」と思わずにはいられなくなり、それをしない自分に落ち込む堂々巡りになります。
絶対にできない、したくないという気持ちは間違いなくあるけれど、生き続けることが一番大事であれば、もう自分のそんな意地とか恐怖心なんか捨ててしまえと思い切った時、そしてその結果事態を乗り切った実績を見た時、自分がなくなったということはなくてむしろ、生き抜けたという安心感や目標の達成感の方が大きかったという経験をしました。
やりたくない気持ちを抱えていた自分を振り切ってしまったことも事実ですが、それが目標を見据えても本当にどうにもならないなら、目標を再設定すればいいのです。
自分の気持ちを大事にする、あくまでも目標達成を目指す、そのどちらも選ぶことができると分かった時、自分は大丈夫だ、生きていけると感じました。
とりあえずは、まずやってみることもありだなという(だけ)のことです。

命までは取られない

これは、家族という身近な人の自死を見たから思うことで、全く一般論ではありません。
しかし、家族の自死という経験から得たことと言えば、「生きてこそ」という思いと、今の日本で生活している限り大抵のことで「命までは取られない」という居直りです。
仕事上で誰かとぶつかっても、大抵のことでは「刺されることはないやろ」と思ってしまうのです。
自死遺族としての辛さは勿論あり、引きずっていることは山ほどありますが、ただ毎日を淡々と生きる上では扱いにくいしぶとさを持ってしまったことに間違いはありません。あくまで私の場合ですが。

時間にまかせる

生来いらち(短気)で、落ち着きのない性格をしていました。
思いついたらすぐやりたいし、物事の結論は一秒でも早く欲しいし、迷う時間はなるたけ少なく、早い決断をしたい。
例えば、小学生の頃は、学年誌についていた紙の付録を作っていて、のりしろが上手く合わないと怒ってびりびりと破って捨てるような子どもでした。
しかし今になって思うと、もしかしてそれは生まれつきの性格ではなくて、常に周りから監視されクレームをつけられる日常の中で、そうされたくないと思っていた為にしていた行動のような気もします。頭の中では次に言われるかもしれない文句でいつもいっぱいでした。何も言われたくなくて、いつも不安で、常にイライラして、早く安全安心な答えを求めていました。
大学生の頃、ある販売店でレジのアルバイトをしていたのですが、その時の店長に嫌なことを言われて、仕事内容や持ち場の環境に文句はなかったにも関わらずさっさと辞めてしまいました。その後に遊びに行くと、嫌いな店長は異動で交替していたのです。時すでに遅く、再びアルバイトに入れる状況ではありませんでした。
その経験から、ほんの少しずつ時間を待つことを意識し始めました。
親の自死を経験し、その辛さを抱えながらその変化を見つめる。
職場で絶対に受け入れ難い異動命令があり、しかし退職できず勤め続けながら異動した結果という現実を見つめる。
自分ではどうしようもない状況の中で生きていて、時間とともに変化するものを見つめ続けていたら、何も行動していなくても時間が経過することで変わることがあると気づきました。
その気づきがあれば、何もできない自分でも生きて時間を過ごしているだけで、変化が来る、現実が変わることを待てるのです。いつか、時間が流れれば、何もかも変わっていくのですから。
来たるべき変化がよいものか悪いものかはわかりませんが、まずは今と違う事態になることを歓迎します。
何もないより、何かある方がよいのです。
何も変化がないよりは、何かの変化がある方がよいのです。
何もできない自分でも、ただ生きて時間を過ごすだけでよいのです。
常に生きる意味はあるのです。

こんな調子で、いくつかの自分ルールを抱えて、今も毎日過ごしています。
ルールが増えるにつれ、生きることが簡単に、楽になります。
多分それが、人から押し付けられたものではなくて、自分で見つけて大事にしているものだからなんだろうなと思います。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?