歌えない理由

 3試合終わって勝ち点3。あと7試合あるとは言えいきなり崖っぷち感漂う展開になってしまった、サッカー日本代表のワールドカップ最終予選。先日のホームに戻ってのオーストラリア戦、薄氷気味ではあったもののちょっと劇的に勝ち切ってひとまずめでたし。試合後、ホッとした顔っていうのはこういう顔ですよという顔でインタビューに答えていた森保監督。「試合前の君が代も今日で終わりかも、、、」と思えば歌いながらそりゃ感極まるよね(笑)。代表監督になった時から覚悟はしていたと思うけれど、とりあえず首はつながったのかな? いろいろな声が飛び交う中でのお仕事、ご苦労さまです。

 勝つも負けるも当たり前じゃつまらない。私はサッカーについては代表戦を最後列で背伸びしながら眺める、くらいだし、ここんとこの代表には、なんでもいいからとにかく動いてるとこ見たい、というような圧倒的なスターがいないこともあって、前のエントリーにも書いたけれど、これくらいヒリヒリした状況の方が「それは見なければ! 応援しなければ!」と思ってしまったりするわけで(勝手言ってすいません)。まだまだ厳しい戦いは続くけれど、でもとにかく勝ててよかったね。

 試合のあと、盛り上がったゴール裏サポーターがやらかしたらしい、とニュースやSNSで知ったのは翌日になってから。応援のお礼にやってきた監督の声に大声で答えてしまい、ついでにチャントも歌ってしまったということらしい。これらの行為が他のサポーターの皆さんの逆鱗に触れた。ざっと見回して、要約するとこういうことである。

 「Jリーグの応援では(チャントを歌うのを)2年もガマンしてるのに!!!」

 ちなみに試合前、選手バスがスタジアムに到着した時も歌ってしまった入り待ちサポーターがいたようで(ま、これは確信犯ですな)、酒井宏樹選手が「いけないってわかってるけどうれしかった」とSNSで発信し、こちらも盛大に叱られていた様子。

 ルールを守らない人に憤ることも、今回の状況であの勝ち方で歌ってしまったことも、どっちの気持ちもわかるけど。

 ルールのためのルールになってるんじゃないか、と思う。いつのまにかいろいろなことが「理不尽に耐えてこそ」みたいな目標にすり替わっている気がする。スポーツの根性論や精神論を批判してた人たちはどこに行っちゃったんだろう。いまの世の中は「水飲んじゃダメ、疲れるから」によく似ている。わけわからない共同責任の罰走にも似ている。そもそもおかしいのは「声出し禁止」の方だ。感染防止のため。でも状況は変わってきているのにみんな黙って「理不尽に耐えて」いる。言い出しっぺになるのが怖いからだ。そして知らず知らずのうちに互いを監視し合ってしまう。

 ライブハウス界隈にも、時々同じものを感じる。とにかく頭低くしとけ、的な。そのうち誰かエライ人が「はい、オッケー」と言ったら、みんな歌い出すのだろうか。そしてまた「はい、おしまーい」と言われたら一斉に口をつぐむのだろうか。

 どうして歌ったらダメなのか、みんなで考えられたらいいのに。JFAも「ルールを徹底させられず」みたいなからっぽの謝罪文なんかじゃなくて、これからのことをそれぞれが前向きに考えるきっかけになるような問題提起をしてくれたらいいのに、というのは愚痴か。スポーツ、ましてやサッカーのように大きなスポーツが社会をリードすることがあってもいいじゃないか、というのは求めすぎなんだろう。声援はあった方がいい。歌声もあふれていた方がいい。みんなもう十分に傷ついたし、十分すぎるほど失ってきた。この上、失わなくてもいいものまで失わなくてもいいんじゃないか。日本的、と言えばそれまでだけど。

 要するに私は問題の場にいたら一緒に歌うか、歌声を聴きながら胸熱になっちゃうかしてたに違いない程度に立派な人間ではないので、なんとなく歯がゆくてつらつら書いては消し書いては消し。2021年秋。もはや、感染者数でもワクチンでもない、問題は煽られすぎ脅されすぎで縮こまりまくった人の心で、人の心に打つワクチンはないのだ。生きていればなんとかなる、というのは真実だろう。でも、生きているだけではどうにもならない、という現実がこの先長く続いていくのだろう。まるで後遺症のように。

 だからこそ、歌声が、響くべき場所で当たり前のように響き渡る日を、一日も早く取り戻したいと願ってやまない。誰かの許可ではなく、それを必要だと思う心で。小さい頃サッカーをやってた息子に、年がら年中「自分で考えろ!」と言ってきたように、いまできることはただ、考え続けることだけだとしても。

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