2021年夏、オリンピックの風景・追伸

 スポーツに興味ない人、オリンピックに反対する人はいつだっていて、それはお酒飲めない人にいくら「おいしいよ! 酒飲み楽しいよ!」と言っても無駄なのと一緒で、仕方ないことだと思っている。加えて今回は新型コロナ騒動もあって、東京オリンピックはかつてない逆風にさらされる大会となった。私は、頼んでもいないのにあれもこれも見られちゃうオリンピックがもともと大好きなので、そういう人がなんか言ってもそれはそれで無駄だろうとは思いつつ、折に触れ、「やろうよ!」と言い続けてきた。

 オリもパラも、開会式の各国選手団入場でものすごく涙が出た。開会式で泣くなんて初めてで自分でもびっくりしたけれど、すったもんだあった中でとにかく選手たちが来てくれて、みんな「わーい」って感じでうれしそうで、それを見たらなんだか泣けて仕方なかった。日本人選手の活躍もほんとうに感激したけど、いろいろな国の選手たちの姿にいつになく心が動いた。1年前あたり、欧米の悲惨な状況をつまんで、「2週間後は〇〇!」と騒いでた人はたくさんいた。各国まだ様々に大変は続いている。でもその状況を乗り越えて、あの時「最悪の見本」みたいなネタにされてた国々からも元気に選手たちが東京にやってきて、晴れ舞台で力を尽くしていた。同じことがパラリンピックでは現在進行中。それだけでもう十分にめでたいことじゃないか、無観客でおかまいできなくて残念だけど、その舞台を用意できただけでよかったじゃないか、と思っている。

 過剰な楽観でも悲観でもない。人口の99%が罹っていない病気でみんなが「死んだらどうする」と言い始めたら、それこそ死ななくてもいい人まで死んでしまう。「罹らない」はゴールではないはずだとずっと思ってきた。「万全の感染対策」を旗印にしている限り、うっかり陽性の人が責められたり謝ったり何もかもおじゃんになったりすることは終わらない。やれる人からやれることをやる。どこかで「リスクを許容する」という方を向き、リスクを検証し、許容範囲を広げながら「備えあれば憂いなし」から「案ずるより産むが易し」へと風向きを変えなければ共倒れになる。とりわけ、最もリスクが低いのに大人の都合で「仕方ない」を押し付けられて割を食い続けている子どもや若い子が気の毒すぎる。私ごときが何を言ってもそれこそさざ波ひとつ立たないので、オリンピックのような大きなイベントがその先例になって、前向きな気持ちを取り戻す人がひとりでも増えればいいなと思っていた。

 世間の手のひらはくるくる返るから、なかなか簡単じゃないけれど、世界はすこしずつ動き始めているし、それこそ1年前とは逆の意味で「2週間後は〇〇!」って希望を持てればいいのにと思っている。困難な課題にみんなが知恵を出し合い、全員は登れなくても誰かが登れれば突破口になる。誰かの勝利を、成功を、努力を祝福し称え合えたらいいのに。あの若いクライマーやスケーターたちのように。「あいつのせいで」「あっちばっかり」みたいな貧乏くさいことをいつまでも言うのはやめて、それぞれができたりできなかったりしながら、お互い許し合いながら、すこしずつでも前に進めたらいいのに。

 オールナイトニッポン水曜二部のパーソナリティをしていた95年に阪神大震災が起こった時、各番組特別なコーナーを作ったりして対応する中、私はスタッフにいつも通りの番組をやらせて欲しいとお願いした。被災地でもしラジオを聴いている人がいたら、いつも通りの、くだらなくて不謹慎で馬鹿馬鹿しい篠原美也子のANNを聴いて欲しいと思った。へこんでいる人たちのために自分もへこむのはおかしい。日常はここにちゃんとある、だから大丈夫って伝えたかった。あの時、へそ曲がりの私は、たぶん悔しかったんだと思う。何もかもが「大変だ大変だ!」の一色に塗りつぶされてしまうことが。

 いまも私は悔しいんだと思う。「命」を盾にそれぞれの日常がひとくくりに踏みつけられてしまうことが。世の中は「立派な人」や「正しいこと」だけでできているわけじゃないし、人間は「きれいなもの」だけでできてるわけでもない。逼迫も崩壊という言葉も、医療だけに使われるのはフェアじゃない。

 そのように、世の中を見ているとついつい悪態ばかり増えて心が荒むので、やっぱオリンピックやってくれてありがたかったなと思っている。いまはパラの車椅子バスケに夢中(鳥海くんステキ)。自分にいっこも関係ないのに自分のことのように悔しかったり、勝って喜ぶ顔、勝負を終えて充実する顔に思わずつられて笑顔になったり、そんなふうに心を動かせることに救われて、まんまと感染症騒動二度目の夏を乗り切ろうとしている。いいことばっかじゃないけど悪いことばっかでもない。日々はとてもちいさいものでできている。

 右往左往する人間を尻目に、ウイルスは周期的にきれいな曲線を描き、自在に増え、勝手に減っている。希望は数値化できない。本日の新規陽性者数、みたいなわけにはいかない。疫病によって見えやすくなったというだけで、失望もむなしさもいまに始まったことじゃない。でも窓の外が土砂降りでも、必ずどこかの空は晴れている。そして空はつながっている、と、かろうじて信じつつ。

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