2021年夏、オリンピックの風景・その2

 スピード、ボルダリング、リードの3つで競い合うオリンピック新種目スポーツクライミング。この内ボルダリングとリードにはオブザベーションというルールがある。競技開始前にその日の課題(コース)を参加選手全員が下見できるというもの。手足を掛けるホールドの大きさや位置を確認しながらそれぞれ攻略法を考えるのだが、選手同士が相談するのもあり。数分後にはライバルとなる同士がわりとなごやかな感じであーでもないこーでもない話し合っている姿に驚いた。

 自分さえ登れりゃいい、ではないのだ。ひとつの課題をみんなで考える。もちろん自分が登るためでもある。自分の考えは教えない、という選手もいるという。でももし自分は失敗しても自分の意見がヒントになって誰かが登れたら(その逆もあるだろう)、知恵を出し合った結果ひとりでも多くがクリアできたなら、たぶんそれはそれでめでたいことなのだ。

 ここ1年半、オリンピック開催賛否含めあちこちで足の引っ張り合いばっか見てきた気がするので、その精神がなんだか沁みた。同じく今回新種目スケートボードに胸打たれたのも同様。難しい技に挑み、成功したら祝福する。失敗したら励まし、抱きしめて肩を叩く。お互いに本気で競い合ったからこそ。なんて自由で、なんて誇り高いことだろう。

 時代は変わりつつあるのかもしれない。スポーツクライミングもスケートボードも海外が主戦場。若いクライマーやスケーターたちはもうとっくに「誰かを蹴落とす」ではなく「互いに高め合う」というこの国に絶望的に欠けている価値観を身に付けているのかもしれない。その自由さゆえにオリンピックの種目としてふさわしいかはわからない。でもそういうものをきっかけにして、もしかしたらオリンピックは変わっていくのかもしれない。

 とはいえ、柔道や競泳のギリギリまで張りつめて競い合う感じも私は充分に好きなんですけどね。オリンピックは4年にいちど満ちる月。世界中の選手それぞれの満ち欠けが果たしてそこに合うのか、息を詰めて見守る日々。ハンマー投げの鉄人室伏広治さんが昔、「4年間練習してきて本番は1時間ですから!ハハハー」と豪快に笑っていたのをいつも思い出す。一瞬の本番。それぞれが引く長い影を感じるのが好き。たどり着いた勝負の時ではなく、そこを目指し努力を重ねた日々にこそ歌は流れる。

 今回、1年延期、大会が始まってからも吹き続けた逆風、そして無観客。心も体も、選手にとってかつてない厳しい大会だったろうと思う。ボクシングで金メダル、ユニークな人柄であちこち話題を振りまいた入江聖奈選手は開幕前「国民の多くが開催を望んでいない中で試合するのは怖い」と正直なところを述べている。歌うなと言われながら立ったステージで、私だったらベストを尽くせるだろうか、それでも誰かに届けと思いながら歌うことができるだろうか。いまでも考える。

 おつかれさまでした。ありがとうございました。

 大橋悠依選手と一緒にガッツポーズしたり、決勝に進めたことを「神さまの贈り物」と言った萩野公介選手と一緒に泣いたり、柔道兄妹同日金メダル「お兄ちゃんも強かった!!」に泣き笑いしたり、水谷さん美誠ちゃんの快挙に飛び跳ねてしまったり、ナイターの馬事公苑の美しさに目を奪われたり、ソフトボール宇津木麗華監督の万感こもるひらがなみたいな日本語に胸打たれたり、池江さん、無事泳げてよかった、もうそれだけでよかったとテレビに向かって話しかけたり、空と海の神さまがすぐそばで見てるような気がしたサーフィンに圧倒されたり、女子バスケ初の準々決勝突破を決めた残り16秒でのスリーポイントシュートに震えたり、それから、それから。

 つながらなかった男子リレーチームのバトン。ちいさい子どもみたいに泣いてたサッカー久保くん。ようやくたどり着いた晴れ舞台で満ちることのなかったバドミントン桃田選手の月。

 そして、叩かれるのを承知の上で最後まで「有観客」を訴えた麻也くんの無念さ。去年の秋、誰もが批判を恐れて口をつぐむ中、「(オリンピックは)やれない、ではなく、どうしたらやれるか考えよう」とテレビを通して呼びかけ、当たり前のように叩きに叩かれた体操内村航平選手の、静かな静かな結末。

 再び千葉すずさんを思う。スポーツライター増島みどりさんによる2019年のインタビューより。
「もし日本にいて、もし日本で典型的な、何を言ってもどうせ無理だ、といった考え方をしていたら、ああいう行動は取れなかったと思います。私が、CAS(スポーツ仲裁裁判所)に行こうと決めたのは、すずがこれで諦めたら、後に続く選手も同じ結果になる、それでいいのか、と向こうの友人や、ホームステイ先の両親に言われた時でした」

 音楽界隈ではフジロックがなんとかかんとか終わったと思ったら、腰が決まらないままフライング、みたいなフェスが出てきてややこしいことになっている。嫌われる覚悟はあっただろうか。音楽家たちは身を挺して発言しただろうか。たとえリスクはあっても音楽が必要だということを、私だったらどんなリスクも顧みずに言えただろうか。胸を張れないのはなぜだ。この敗北感は何だ。

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