水在月

まだ梅雨が明けきらない7月のはじめ、ヒロアキは母親と奈良の祖父母宅に松山旅行のお土産を届けに行った。
「どうだった、松山は?」
「それがねえ、お義父さん、この子、一瞬だけど行方不明になったんですよ。道後温泉で『神の湯』にはいったときにね。マサキさんが男湯に連れていったんですけど、この子、すぐ『のぼせた』といって先にあがったんですって。しばらくしてマサキさんがあがってみたら、脱衣所にいなくて。狭いところなのに見当たらなくて、慌てて服を着て入り口の係のひとにきいたけれど、子どもがひとりで出て行ってないと言われて、途方に暮れてもう一度脱衣所にもどったら、柱の陰からひょいと出てきたんですって。この子はその柱の後ろの部屋にいたって言うんですけど、入り口なんてどこにもなかったんですって。神の湯だけに、神隠しだったのかしら、ってマサキさんと話してたんですけど」
「ほう、それはおもしろい経験をしたね」
「おもしろいだなんて、お義父さん、焦りましたよ!といっても、わたしは後で話をきいただけですけど」

 母親が庭の草木の水やりの手伝いに立ったあと、ヒロアキはおじいさんに言った。
「そのおへやにはね、たくさんのひとがいたんだよ。それでね、『みざりつき』っておかしくれたの。それで、『もうそろそろもどらないと、いえのひとがしんぱいするね』ってドアあけてくれたんだ」
梅雨の合間の晴れた午後、青々した草をざあっと風が撫でてゆく。ゆったりと団扇をあおぎながら、おじいさんは優しく言った。
「ヒロアキ、それはね、堀の神様の会だったんだよ」
「ほりのかみさま?」
「ヒロアキの家のちかくにも、お堀があるだろう。お堀にも神様がいてね、日本中のお堀の神様たちが、年に一回集まるんだ。集まる場所は毎年違う場所でね。その場所にあるものを食べたり飲んだりして楽しみながら、和歌を詠んだりして過ごすんだ。ふつうのひとには、見えないけどね。そうか、今年は松山だったね。その月は、神様がでかける分、お堀の水がすこうしだけ少なくなるんだ。だから、6月は『水無月』て呼ばれるんだ。ヒロアキがもらったのは、ふつうは『水無月』って呼ばれるけど、神様たちがいるから『水在月』というお菓子だろうね」
「おじいさんはどうしてそのことしってるの?そういえば、かえるときにひとりが『おじいさんによろしく』ていってたよ」
「すこしだけね、そんなにたくさんいないけど、神さまのお手伝いをする人間がいるんだよ」
おじいさんは片目をつぶってみせた。

「お茶を淹れましたから、お土産のようかんいただきましょう」
と、おばあさんの声が聞こえてきた。

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