202204 私とは何か~「個人」から「分人」へ~ 平野啓一郎 2

ハロー。Shiiです。 この間の記事の続きです。

第二章 分人とは何か

この章では、「分人」という考え方について詳しく語られている。

「個人」という概念(individual)は、西洋世界のキリスト教(一神教)の考え方をルーツとしている。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない」というイエスの教えから、唯一の神に対しては、本当の自分(個人)として接しなければならない、という考え方だ。
プラスして、西洋の論理的な考え方も関わってくる。人間社会を、分けられない単位まで分解したものが「個人」である、という考え方だ。

この概念が日本に輸入されたのは、近代、明治時代である。たかだか、150年ちょっとしか経っていないのだ。馴染むはずがない。
そもそも日本古来の宗教である神道は、八百万の神(やおよろず)という言葉があるように、万物に神が宿るという考え方だ。決定的に合わない。
また、日本は農耕民族であり、基本的に察する文化なので、和を大事にする。時にはロジカルに反することをしてしまうのが日本人というものだ。
多方面の人に気を配る必要があり、必然的に多面的な考え方をするのだ。

このギャップが、現代社会にどのように影響しているか?
一言でいうと、みんな苦しいのだ。

我々が日常で接しているのは、唯一絶対の神などではなく、多様な人々だ。
Shiiも、朝は妻と子供と接し、昼は会社で同僚や上司と接し、保育園の迎えに行けば、先生やほかの父母と接する。
そのすべてに一つの人格(本当の自分)で接するのは、実質不可能だ。
すると何が起こるか。
本当の自分はどこにあるのか、という考えになってしまうのだ。今日過ごしてきた中で、大半は仮面をかぶった偽りの自分であり、本当の自分はこうじゃない、などと考えれば辛くなるのは当たり前だ。

この、本当の自分(個人)と偽りの自分(仮面)というモデルは、インターネットやSNSが普及した現代では、成り立たなくなっているように思う。

そこで現れるのが、「分人」という考え方である。
分人は、対面する相手ごとに存在する自分であり、もちろんたくさんある。
そのすべてが、本当の自分なのだ。
接する相手が変われば、分人も自然と切り替わる。
shiiの例でいうと、子供に話しかけるときの私と、上司に話しかけるときの私は同じであるはずがない。同じだとすると、その人は社会的にまずいことになるだろう。
分人には個別のものもあれば、「社会的な分人」のように’大きなくくり’もある。例えば、あまり親しくないご近所さんとすれ違ったときや、コンビニの店員と接するときなどがこれにあたる。

個性は分人の比率で決まる。つまり、時間や環境とともにかわっていくものなのだ。つまり、個性は自然に決まっていくものである。個性を大事にしなさい、個性を伸ばしなさいなどという教育は、逆に個性の呪いをかけて、人を苦しめることにもつながりかねない。

話を戻そう。
ここで私が一番大事だと思ったことは、抱えられる分人の数には上限があり、その上限は人それぞれだということだ。
Shiiの場合は、それほど多くない気がする。社交性がゼロではないが、初めて会う人がたくさんの場だと疲れてしまうし、本当に親しい友人は少なくていいとも思っている。

また、分人の生成やその気質を制御することはできないが、どの分人を軸にして生きたいかは決めることができる、と作者は述べている。
これには勇気づけられる。我々にも選択肢が残っているのだ。
Shiiが大切にしたい分人は、妻や子供に対する分人、仕事上で尊敬できる同僚や上司に対する分人、バスケコミュニティに対する分人だ。そこまで多くない。これくらいなら対処できそうだ。

この章を読むと、分人に対しての理解が進むと同時に、どんどん興味が増していくような感覚になった。
また、自分らしさを求めてモヤモヤしていた「自己成長を正義とする社会に対する私の分人」の霧が少し晴れ、すーっと気が楽になったように思う。

最後に引用で締めよう。

人間の身体は、なるほど、分けられない individual。しかし、人間そのものは複数の分人に分けられる dividual。

平野啓一郎 私とは何か 第2章 p.96

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