夏の終わり。

というのは嘘で、単に夏休みの終わりである。今日が夏休みの最終日だった。明日からまた仕事の日常が始まる。

10日からの夏休みは毎日家族と過ごしていたが、特に娘には楽しいことの多い夏休みになったのではなかろうか。とてもイキイキとしていて、いい笑顔がたくさん見られた。

「パパ起きてー」と、朝は娘が起こしに来る日々だった。朝ごはんを食べ、外出する日は外出した。泊まりがけの日もあった。ホテルは快適で、妻も娘も僕も満足だった。海の見えるホテルと、朝食バイキング。

夜になると僕は部屋で映画をよく観た。昔の楽しみのひとつだった映画は、結婚して娘が生まれて以来、ほとんど観に行くこともなくなっていて、いきおいDVDで映画を観ることも減っていた。映画に飢えていた。映画でしか埋められないものがある。夕方、買い物のついでに駅前のTSUTAYAに寄り、映画を一本ずつ選んできて夜に観る。何てことはないようだが、僕にとってはきわめて喜びあるルーティンだった。

観た順に列挙してみると、『桐島、部活やめるってよ』『アラビアのロレンス完全版(これは自分の所有)』『ブルーバレンタイン』『息もできない』『英国王のスピーチ』『エイプリルの七面鳥』『ライフ・オブ・パイ』『グラン・トリノ』『マイレージ、マイライフ』『ハート・ロッカー』というところだ。(なお『マイレージ、マイライフ』をようやく観られたことで、昔から何度か読んでいるこのページの詳細にようやくついていける)

映画の話のついでに、今日図書館で借りた本を。『スクリーンで旅するアメリカ』『知的巨人たちの晩年』『ロングセラー商品のデザインはここが違う!』ここまでは衝動借りというか、書架をぶらぶらと物色して面白そうだなと思って借りたもの。カウンターへ言ったら予約していた山本七平の『「あたりまえ」の研究』が届いていた。四冊はちょっと多いが、借りていく。そう言えばブクログも途中まではある程度マメに記録していたのだが、ずいぶん長くログインしてなかった。最後の記録は2012年。絶望的に昔だ。その間の読書記録はとうてい埋められるものじゃない。今見たら、その4年間の間に新たにフォローしてくれていた人が5人いた。

また、明日から仕事の日々である。長めの休みになるといつも、まるで原点に立ち返ったように行く末を考えてしまう。時間的な余裕が為せるわざだ。だが仕事の毎日が始まると、そんな思考などなかったかのように、せわしない日常の渦に翻弄されるのがいつものパターンだ。今度はそうじゃないといいと思う。年をとるごとに考えることは少しずつ変わっていく。でも大きなスパンで振り返ると、自分自身あまり上手く変化できていないように思えてしまって、ある種の焦燥感にかられてしまう。何と言うのだろう、行きたい場所などないくせに、どこかに行かなければならない感じがしてしまうのだった。

生きることの快や不快は自意識の持ちよう、あるいは自意識とのつき合い方にある気がしている。事実や現実はそれを補強するためのものではないかと思う。つまりこの考え方でいくと、要は「思い込めたら幸せ」なのだ。逆に、一般的に見てどれだけ恵まれている環境だったとしても、本人が確信を持てなければ幸せではないのだろうと思う。そして意識そのものは自分自身で持ち直すことが困難なので、例えば身体を動かしたり、人の言葉や感情に触れたりすることで回復されるのだ。

環境、つまり自分を確認するための状況を、自分にとってより良いものに変えることで、自意識はそれによって押し上げられるようにして水面から顔を出し、今より少しは楽に呼吸をすることができる。そう考えている。


やぶさかではありません!