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欠点に向き合わずに生きるには?

何もかも上手くできる人というのはいない。

あの人は何でもできてバランスの取れた人だと言われる人でも、それは外から見えないだけで、意外なことができなかったりする。
それなりに立場がある人でも、いや立場がある人ほど、苦手分野を周りにアウトソースしていて本人はまったくできないなんてことがある。

何か一つのことができないことで「だから自分はダメな人間なんだ」と自信喪失する人がいる。
一方で、欠点などいくつも持っていても平気な顔をして生きている人もいる。
この違いは何だろうか。

結論から先に言ってしまうと、(「性格」というキラーワードは置いといて)前者は「一つのことを重く捉えてフォーカスしすぎる人」、後者は「苦手な一つ以外に自信を持てるものがあると思える人」ではなかろうか。

前者は、つまり欠点にフォーカスする人は警戒しているのかもしれない。過去に味わった嫌な記憶に学習して、嫌な思いはなるべくしたくない、その思いが強いから警戒心が発動して、心の中の兵力をそこに多く割いている。だがそれによって、心の大部分を、長期間にわたって「嫌なことについて考える人生」になってしまっていないだろうか。

後者はもう少し楽観的だろう。物事をワンオブゼムで考える。これがダメなら他がある、と軽い気持ちで臨んでいる。臆病じゃない。心に貯金があるから、多少の出費など気にしないでいられる。

物事はワンオブゼムに過ぎないというのは事実だ。正しいのは後者。なのだが、誰もがそのように思えるわけじゃない。心はそんなに簡単じゃない。時間が感覚によって伸び縮みするように、心によって物事は重大にもなるし軽微にもなる。コントロールできたら苦労はしない。

自分の欠点にばかり向き合わずに生きるにはどうすればいいのか?これは難しい問いだと思うが、おそらくこれが効果的だろうというのはある。

それは、自分から行動する人生を生きることだ。

欠点という「問題」に向き合うのでなくても、何かまったく他のことでも、主体的に、つまり自分を人生の主人として考えて自分から行動する。受け身にならない。人の評価を求めない。承認されようと欲しない。
人の脳はどうやら大雑把で、簡単に騙されてしまうようだ。つまり「何について動いているか」という目的の部分はあまりキャッチアップせず、「動いているか動いていないか」「気持ちが嬉しいか嬉しくないか」といった部分に反応する。雑に言えば、何でもいいのである。細かいことは気にせず、こっちが自分のやりたいことだ、という方に向かってやってみる。そうすると脳が嬉しくなる。脳が嬉しくなると、それまでに思い悩んでいた物事のディテールが、実は自分にとってもどうでもいいことだったと気づくのである。

さて、今日も主体的に走ってきます。

キョウチョットサムイ


やぶさかではありません!