学生最後の長期休みに家が重すぎると気付いた実家暮らしの娘の話

タイトルの通り、家が重すぎる、と24になって自覚した女性が筆者である。

家が重いって何?と思う方にとってこの文章は必要のないものであると思われるから、そっとページを戻って頂きたく思う。そうでない、身に覚えがある、と思う方はこんな24もいるのだな、と暇つぶしに見て貰ってもいいかもしれない。

端的に述べよう。

「その日は家にいてほしい」

家族のこの言葉を鵜呑みにし、言うとおりに従い続けていたら、筆者自身の自発的な思考力、行動力はいつの間にか他人のそれとは比べようがないくらい薄いものになってしまっていた、という話をしたい。

この言葉は、もしかしたら娘を縛る呪いの言葉になるかもしれない、ということを伝えたいのである。それは、言い換えると「家にいて何かしら家のケアをしてほしい」という意味かもしれないからだ。

ケア、というと概念が大きいかもしれない。これならばどうだろう。

「家事のお手伝いをしてほしい」

「ほかの家族が買い物に出掛けてくるから、家を空けないためにいてほしい」

「育児を手伝ってほしい」

「出掛けられると帰りに何時に帰って来てくれるかわからなくて心配だから、いてほしい」

「祖父母の様子をみてほしい」


全て、実際に筆者が言われた言葉である。

ひとつひとつ、具体的に見てみると、まああるかもな、という要求かもしれない。問題なのは、これらの要求を纏めた意味合いとして、前述の「家にいてほしい」という言葉かけをされることにある。言う側も言われる側も、癖になってしまいその要求がとてつもない負担があることに気が付かない。

気が付かないということは、これが日常になるということである。するとどうなるか。

いつの間にか家族の歯車の一部となり、歯車は1人で行動する意志も、欲求も経験も希薄なまま大人になってしまうのである。それでいて周りの空気を読むことばかり上手くなり、何時の間にか疲れ果てていることさえある。

歯車は本来人であり、人は社会で生きていかなければならない。具体的には、労働して賃金をもらい、自立をしなければいけないのだ。それは、家でのケア役割をしているだけではどうしても成し遂げることはできない。筆者は、そのことに今年初めて気がついたのである。

今日は母親が出掛けてしまうから、家にいよう。

夜8時を過ぎると、父親が母親に「筆者ちゃんは何故帰ってこない」と怒るから早めに帰ろう

恋人や友人と出掛けるときは、どこに何時に行き、何時に帰ってくるか。一緒にいく人の連絡先を親に教えよう。

この日は午前中に予定あるから、夜の飲み会は断ろう(1日1ターンしか動かないのが常識になる)

今思うと、過干渉な親に反抗しなかったのが不思議であるが、一般的に家の手伝いをすること、人を思いやりケアをすることは素晴らしく、道徳的に評価されることである。人からほめられたいと強く願う筆者は、どうしようもない生きづらさを抱えつつもただ従っていた。

人を、家を、家族をケアするだけでは自立が出来ない

問題なのは、お金だ。

大学生になり、自分のやりたい勉強には専門書が必要で、買うためにお金がいる。

学会、講習会に出るために、お金を使う。

他人と飲み会や遊び、旅行でお金を使う。

自分が欲しいと思った化粧品、服、娯楽にお金を使う。

筆者はバイトを始めたことで、家以外にお金を使いたい機会がグンと増えた。高校まで、そもそも家にいることを要求されまくっていた生活でお金を使うことは少なく、あってもそのたびに親からお金を貰っていたのだ。

自分のために働き、自分のためだけにお金を使う。自分が家族以外に大切にしたい人たちのために自分でお金を貯めて使う。一気に世界が広がったように思えた。

筆者はこのとき始めて、親に従うばかりではいけないことに気が付き、そして最後の学生である今年、この生きづらさは家が重いことにある、と自覚したのである。

今年の2月~3月には社会的役割としてバイトを入れまくる生活、そして7月~8月は家のケア役割として家にいまくる生活を試してみた。

結果、精神的に楽であったのは2月~3月のバイト生活の日々であった。

(これは筆者個人の感想であるので、一般的に家にいるほうが楽しい、精神的に安定する、という人も勿論いるだろう。あくまで筆者自身の過干渉の家にいる筆者、という個人的な感想である。)

ともかく、

自分でお金を稼ぐことは、家にいるだけでは成し得なかった精神的な解放感があったのである。文章で上手く表現出来ないのが悔やまれるが、まさしく筆者自身にとっては革命であった。

家族が自身に期待するケア役割と、自らの精神的自立を計ること、他人と関わる、お金を稼ぐなどの社会的役割は相反するものである。

家にいてほしい、この言葉を家族から言われたとき、少し考えてほしい。その言葉は、娘を縛る呪詛の役割を持っているかもしれない。その言葉は、あなた自身の社会的役割を犠牲にする言葉かもしれないのだ。

両親には幼いころから養育され、惜しまずにお金を使ってくれたことに感謝をしている。そのうえで、あえて強調したい

娘に過剰なケア役割を期待すんな!!!!!私だって私の人生がある!!!!!私に!!!!社会的役割を私自信で持たせてほしい!!!!!!!!!




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